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【虎に翼 感想】第115話 裁判は、勝つか負けるかだけではない


昭和38年6月

最高裁判事に任命された桂場は、入れ替わりに鑑定人としての職務を終えた。
“あんこ裁判” は無事、梅子の勝訴で終了したのだ。

同じ頃、笹ずしのおっちゃんは、すでにほぼ歩けない状態になっていた。
道男は、自分が経営者となることへの不安から、店を継がずに廃業することとなった。そのお詫びに寅子のいる竹もとにやってきたのだ。

竹もとで寅子たちがお昼休憩を過ごしているのを見て、ずっと思っていたことがあった。
昼食としては、竹もとのメニューはお腹いっぱいになるのかって……。
まさかの竹もとに道男が働くことになるとはビックリだったが、昼食に寿司メニューが増えることは朗報だと思った。


同年秋

原告の請求を棄却すること。この場面においては大きな論点ではなかった。
それは鑑定人尋問からずっと、原告側が裁判官の心証に訴える戦術をとっていたことからも伝わっていた。
だが、これまで担当した裁判の判決文と同様の起案でよいのか……そうではないことは明白だった。寅子は、言葉を書き加えることを提案した。

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夕方の星家。
テーブルの上に置かれていた黄色いもの、あれはリーガルパッドではないか……だとしたらちょっと懐かしい。

百合が現れてバナナを食べ始める。その姿は動物のような、退化の姿にも見える。
百合はますます認知症が進んでいる。だからといって、何も記憶がないわけでもなく、本人は自覚があると聞く。一番苦しいのは百合なのだ。

寅子は、百合に聞かせるでもなく、月経(寅子は「生理」と言うようになっていた)が終わりかけて楽になることへの期待を語り始める。抗がん剤治療で強制的に閉経した身としても、それは辛い “副作用” ではなく、辛いことの中の “副産物” だと、喜ばしいこととして受け入れていたものだ。

寅子は百合に、原爆の被害者を投影させていた。苦しみを吐き出す姿は、吉田ミキをはじめとした5人の原告たちだし、5人の後ろには、同じように苦しむ多くの被爆者たちがいるということだ。その者たちを知らんぷりしたり、なかったことにする世の中にはしたくないと、心から思っていた。


同年12月

民事裁判で主文を述べる前に理由を読み上げるのは、当時は異例のことだった。
途中で退室しようとする記者たちに、“最後まで聞け” と言わんばかりの汐見の熱量には圧倒されるばかりだ。

経済的に豊かになった日本が、政治の貧困を生んでいる……なんとも皮肉なことだ。
裁判所にできることは、訴えを起こしてきた当事者の声に耳を傾けることだけだ。だがそれでは被爆者全員を救えない。国で被爆者を救済する法案を成立させよとの司法からの厳命とも言ってよいのだ。

裁判では複数の主張を個別具体的に行うこともあるが、判決が出て「勝訴」だったとしても、個別的には一部主張を裁判所が認めてくれなければ控訴することもある。逆に「請求棄却」だったとしても、受け入れられる理由であれば、それで終わらせることもある。

国側指定代理人の反町は、静かに聞き入っていた。彼だって、戦争で大切な人を失っているかもしれないのだ。
航一は、廊下から漏れ聞こえる声を拾い集めていた。この原爆裁判においては被告側に自分を位置付けていただろう。自分を裁く者がいなかった苦しみを抱いて生きてきたが、今、ようやく裁かれたのだ。

岩居も轟も、依頼者に誠心誠意向き合い、長い年月を共に闘ってきた。もちろん、そこには雲野弁護士もいる。

よねが静かに涙を流す……意義のある裁判にしようと言ったことに、寅子が応えてくれた。
判決は敗訴だったが、寅子とよねの正真正銘の “和解” の瞬間だったようにも思えたのだ。

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原爆裁判は、あの戦争を振り返るための、大きな裁判だった。人類最大の被害を被ったともいえる被爆者たち。心身ともに傷ついた人々は、ようやく次の人生に進んでいくことができる。

判決文は胸を打つすばらしいものだったけど、ここには書きません。裁判はこの1件だけではないから。
これがたとえ小さな裁判だったとしても、その人が次の人生に進める結果になったのであれば、私は心から喜んだと断言します。


次週予告

多岐川が衰弱している。お別れのときが近いのだろうか。
少年法の改正は、愛の裁判所とは離れていくもののようだ。
桂場の出世は、司法の独立を実現するものなのか。
理想と理念を呼び起こせるのか、寅子!


「虎に翼」 9/6 より

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おっちぃ
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