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お笑いの日2021&キングオブコント。


やっぱり2回目ってワクワク薄いな。

お笑いの日。


昨年はコロナ禍の初めての夏を過ぎ

対策に右往左往しながら

なんか開放的な空間を求めていた。


笑いたいのに笑えないような

窮屈な雰囲気があったからこそ。


待ちに待った宣言解除後の遠出。

それと似た感じでしょうね。


通して観て、やっぱりちょっと

2回目はインパクトという意味でも

大満足とまではいかないかな。


それとテレビでの大型フェス番組が

最近多すぎて。こぞって各局真似て

似たパターンでトレンド化したので

その既視感があることも理由のひとつ。


2度目、2回目以降は何事も

新鮮さが無くなるのは常ですが

マンネリに対して明らかに

忍耐力が落ちた私たち現代人も

我ながら、どうかなと思う(笑)


マンネリに対する忍耐力の低下。

想像してみると納得できることも

あるのではないでしょうか。


協力し合うという意味では

エンターテインメントに対して

私たち大衆は、協力的ではない。


完全受け身のカスタマー状態。

審査員的なポジショニングで

ジャッジメントスタイル。


昔はヘタなエンタメであっても

どこかで、まぁまぁしょうがないよ

みたいな許容があった。

これくらいはしょーがないよ。

っていう許しというか。


だけど、これってやっぱおかしい!

という主張が目立ち始めて触発され

全体もなんか遠慮しなくなってしまった。


これはテレビのバラエティー番組が

そうしたスイッチを入れた結果なので

自業自得な面もあるんでしょうけど。


それも行き過ぎると今度は

またみんなで協力し合わないと

逆にダメじゃないの?

って時期にまで、いまは来ている。


どうしても目について

不満を何か吐き出したくて

吐き出すツールがあって

可視化されて、広まってしまう。


実はほんの一部の意見に対しても

誰かが同調してウネリになることで

無視できず対応せざるをえなくさせる。


これをやってしまうと人間って

どうしてもうまくいかなくなる。

全体も縮こまる傾向が強まっていく。


昔は投書や電話などでの文句。

でもこれは当事者以外には

伝わることはなかなかない話だった。


時を経ていまは当事者以外が

関係ないのに参加しすぎる社会。

知られてしまうその厄介さがある。


また、生放送の難しさも

いろいろとあるんでしょうね。

ずっと連続で観る人は

あまり多くないと思います。


ダレてしまうし、飽きてくる。

ワタクシは録画もしながらで

見れないものは後で観ましたが。


演者の側としての、なるべく

スムーズに進めたい気持ちと

ツメアト残したい気持ちと

両方見えてた感じがしましたね。


長時間の番組自体を成功させる

その目的のために協力し合う

という感覚があると思うんです。


これって自分だけの感覚では

うまくいかないから難しい。


各自がチカラを発揮するとか

個でツメアトをのこすのとは

ちょっと違うんですよね。


番組全体を成功させるために

協力し合うという感覚。

引くところは引かないと

カドが立ってスムーズさを欠く。


でも引くだけだと全体が

間延びしてなんかダメになるから

どこかでガッといく瞬間も必要。


それを互いが譲り合うとまた

ヘンな感じになる。


そのあたりの感覚はまさに

ライブ感覚で、アドリブ的。

お笑い芸人は得意分野でしょ?


相手が動いて

自分がいま、どう動くか。

あるいは動かないか。

仕掛けるタイミング。


キングオブコントのときの

ニューヨークはM-1の時のように

審査の時、ちょっと仕掛けて

噛みついてみせたんですが

あそこはタイミングが違う。


ワタクシも観てて引いたし

空気もちょっと悪くなってた。

お笑いのタイミング、トーンでもない。


ちょっと違う空気のなかで

行ってしまった感があって

松本も昔ならキレてたかも?(笑)


その後、空気階段が空気変え

見事に流れを掴んだ。


ベストワンでは

鶴瓶はこういうフェス番組は

結構引いて周囲に気遣うタイプで。


それで引いてたんだけど松本は

そのカオスの中でやり合おうや!

と誘って引っ張り出そうとした。


ダーハマもそれが好きだからこそ

暴君化してみせて、誘い込もうと

仕掛けてくる。


実に楽しげなのが伝わってくる(笑)

丁々発止じゃないけど

仕掛けてみたりして相手を誘う。


引っ張り出して、フリを入れる。

フリに応えると、何かが動くから。


もともとそういう動かし方で

やってきたのがダウンタウン。

それがストロングポイントで

まさに真骨頂となっている。


だからその感覚に慣れている視聴者は

雰囲気をあえて壊しにいく

ダウンタウンをどこか心の奥で

望んでいたりもするんです(笑)


ハマタの暴力的振る舞いも実は

視聴者の多くが許容していて

なんかやってくれないかな?と

心の中では思っていたりする。


それに応えてダーハマは

あえてやりにいく。

ソーシャルもろとも壊しにいく。


それが痛快な、なんというかな

「待ってました感」にまで

昇華されて名人芸として

許されているのかもしれない。


いまの社会の雰囲気はこの暴力的な

振る舞いも許容しないという流れ。


ただその批判も一部の意見を

取り上げすぎてしまうからこそ

全体のバランスが崩されてしまう。


おそらくほとんどの人は

テレビの中では自由にやっても

いいよと公言しないまでも

思っているはずだと感じます。


なんというか、BPOに寄せられる

意見や声、その決定がすべてでは

ないんだよと自らが証明して

みせようとしているようでもあった。







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