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気づいたら忘れていることってやっぱりある

なっげえ話をします
時間が暇な時に読んでね。ダルかったら読むのやめて良いので。気楽にどうぞ。


タイトル通り。
気づいたら忘れていることを、実感させられること、ある。
私は結構、昔からずっと過去の記憶を反芻する癖がある(この時点で都合悪いこととか、すでに忘れている可能性はある)。

保育所や幼稚園の組の名前や、小学校から大学までのクラス名、それぞれの学校の授業時間とか、出会ってきた同級生の名前とか(田舎だから大体みんな同じ進学ルートなので自然と覚えていくってのがあるから余計かもしれない。流石に大学の同級生までは全員覚えてない)、幼稚園の運動会でやった種目、小学校中学校高校でやった運動会体育祭の演目……、文化祭の合唱で歌った曲…みたいな様々な出来事を思い出しては(あったな〜。いたな〜)と思うだけのことをしていた。
大学卒業するまで。いや、高校卒業するまでだったかも。

今思えば、暇だったから、記憶を反芻してたのかもしれない。田舎で、出歩く習慣もなかったし(すぐ知り合いに会うから)。そもそも陰キャだし。私も例に漏れず、本とテレビとネットが友達、だった。でも、高校はそこまでネットは嗜んでなかったかも。親の目があるからね。
だから、やっぱり暇だったのかもな。
大学になると、一人暮らしだし都会だし、で、考える時間は少なくなっていったのかもしれない。

大抵、そういうのを考えている時、当時の記憶も必然的に思い出す。みんなそうだと思うけど。
だから、それに付随するその時時の自分の子供心も思い出せていた。

星の王子さまの、王子の言い分がものすごくよくわかっていた。
いつか忘れていくものって言うけど、自分は絶対忘れない、こんなに反芻してるんだからって思ってたんだけどな。

大学、就職、社会人………をしていたら、話通り、本当に忘れた。王子の言い分もわからなくなったかもしれない。
忘れていることにも気づいてなかった。忘れているのが当たり前になってたし、今もなってる。思い出せない。
もう、あんなに反芻してた細かい記憶がほとんど思い出せない。幼稚園の組の名前も、小学校の授業時間も、中学校の文化祭の合唱で優勝した曲も、高校のダッセェ伝統の体操も。
思い出せない。ひねり出してうっすらぐらい。

でも、人間って本当に不思議だね。
当時のものに触れると、思い出すんだよ。
一応、脳の引き出しにはちゃんと仕舞ってあるみたい。
ご年配の方は昔のことを急にスラスラ思い出せるのは、これなんだろうな。

私は、嵐のライブを見て、急に色んなことを思い出した。
先日、友達に見せてもらう機会があって鑑賞会をした。めちゃくちゃ面白かったな……。高所恐怖症の翔ちゃんが高いところに行く度に、マイク付きのグローブつけてるのを、逐一教えてくれる友人面白すぎた。翔ちゃん、かわいそかわいいね。
懐かしい曲もいっぱいでありながら(知らない曲ももちろんあった)、新鮮さもあり……。
そして、実は、なんだかんだ嵐のライブってまともに見たことなかった。だから、総評は見て良かった見せてくれてありがとうだった(本当にありがとう!)。

そして、見終わった後から、数日、私は、忘れていた幼い頃の自分の色んなことを少しずつ思い出した。

ライブは見ていなかったけれど、テレビはよく見ていたから、嵐の曲を自然と耳にしながら大きくなったみたいなものだったんだなと思った。

曲に対して、それぞれに付随する当時の記憶が結構あることを実感した。
思えば、ドラマも見てたし、バラエティも見てた。音楽番組も。
そりゃ、記憶が根強くあるか。

流石に具体的には思い出せないんだけど、でも、なんとなくふんわりと当時思っていた自分の心の片鱗に触れることができた気がした。過去の自分がちょっとだけ戻ってきたような感覚もあった。
そして、同時に今の私はそれらを忘れていることを知った。
あんなに反芻してたのにな、というのも、今更になって実感した。びっくりした。ほんの少しショックだった。

知らん間に大人になってるらしい。
いや、まあ、年齢的に大人にならんとおかしいんだけど。
でも、それにもびっくりした。
 知らない間に忘れていって、いつか大人になるって本当だったんだって、当たり前のことに驚いている。

で、その思い出している時に、「自分がなんでこういう生き方をしているのか?という根本も曖昧になって、諦めようとして、そのまま忘れかけていた」のも知った。
これは言い換えると、逃げているとも言うし、現実を見ているとも言う。

私って、何かを発信して、誰かを支えたかったんだよな。

自分がそうしてもらったから。

ありがたいことに、誰かにいじめられたとか、無視されたとか、辛い人生を送ることなく、比較的穏やかに学生時代を過ごさせてもらった身なんだけど、中学時代は本当に無口だった(逆にいじめられていた子を一人にしたくなくて、週一回ほどあるかないかの同じ部活で、話せる時はポツポツと会話をしていた)。
いじめられたこともなかったけど、無口で自分の席にずっと座っていたから、影はものすごく薄かったと思う。
高校になって、友達とかのお陰で喋るようになったし、今も結構喋るから安心してほしいんだけど、当時は内弁慶も相まってほとんど喋らなかった。1日に一言喋ったらいい方。

じゃあ、休み時間は何をしたいたのか。
想像通り。ずっと読書をしていた。
寝るのにもやっぱり限界はあるから、分厚い本(「私は分厚い本を読んでいるインテリ」気取りみたいなのをしていたと思う。ほら、中学生だから)を自宅から持ってきてずっと読んでいた。まあ、ハリー・ポッターとか翻訳された海外児童文学なんだけど。
図書室にも行って、空いている席で読む日もあったけど、それでもやっぱりほとんど喋らなかった。小学校からの友達もいたけど、不登校とかクラス替えとかのすれ違いでほとんど交流もなかった。
話しかけられたら、話をするけど、自主的に話しかけない。話しかけないと言うか、話しかけられないと言うか。
まあ、単純に言えば、「どう交流していいかわからないから、本に逃げていた」。

この点は、今絶賛書いている食糧天使のリンと一緒。だから、ちょっとだけ親近感がある。
でも、全く境遇が違うから、ほんの少しだけ同じだなってこちらが一方的に勝手に思ってるだけ。リンに「同じだね」、なんて言えない。言いたくない。逆に傷つける。本に逃げる行動には、リンにはリンの理由があって、私には私の理由がある。
でも、やっていることは同じだから、ちょっとだけ気持ちがわかるんじゃないかな、って思ってしまう。歩み寄りたくなってしまう。性だね。まあ、もしかしたらリンは意図的にやっていないのかもしれないけど。

現実から逃げる先の本は、ただ自席に座っているだけの私を色んなところに連れて行ってくれる。

 話しかけられない気まずさとか、不安とか、何もしていない時、教室のどこに目を向ければいいとか、そんなこと全部考えなくていいようにしてくれる本は、まさしく当時の私にとっての親友と言っても過言ではかったと思う。

いつしか逃げるというより、読むことに重きを置くようになって、夢中で本を読んでいた。気づけば、純粋に本が好きな子供だった。

昔から朝起きるのが苦手で、自力で学校に行けず、車で送り迎えしてもらっている車の中でも、その車を待っている昇降口の前でも座り込んでずっと読んでいた。本によって、助けられていた。

だから、自然と(私もこういうものを書いて、今の自分みたいに助けたい、支えたい)って思うようになった。いつから、思い始めたなんて記憶にない。そこから、なんで文章書くことが好きになったのかも記憶にない。そんなに書いてないのに。いつの間にか好きになってた。なんでだろうね。
書けなかったら、諦めもつくだろうに。
書くこと以外でもやれることはあるのに。
書こうとしたら書けるから、結局、書くことを重要視している。

マジで恥ずかしいし、ほとんど人に言っていないことなんですけど、これ。
でも、私、それをやりたいんですよね、ずっと。

なんか、いつの間にか、生きがいを感じて出来ることが文章を書くになってるし。本当、なんなんだろうね。毎日何文字も書いてるわけじゃないのに。

でも、何かを書いて、それを読んだ人が少しでも救われたら、「支えられたなあ」って立ち上がれるきっかけになれたら、それほどの幸せはないなあって、ずっと思ってた。
そして、いつしか、それをほぼ忘れようとして、諦めていた。

だって、大人だし。
現実的じゃないし。
助ける、もたくさんの種類があるし。
別にものを書くだけが手段じゃないし。
鍛錬してないし。
もうその時点で考えが甘いじゃん。

どんな形であれ、助けること出来る、支えることが出来るなら、それでいいじゃんって妥協した。

でも、ああ、私って妥協したんだなって、過去を思い出していて、自覚した。

妥協したのは、分かってなかったわけじゃないけど、急に自分に重くのしかかった。努力していないのに、やっぱりやりたいらしい。 

自分の内心がそんなこと言い出すから、とりあえず、考え直してみた。

結果:わからん。

半端に思い出して、半端に大人の思考があるから何もわからん。

ただ、諦めるってのはしたくないなと思った。
だから、なんとか、やれるだけやってみたいなと思い始めた。ちょっとでも。
人生長いし、なんもしないよりなんかしてみるほうがいいし。

私が助けてもらったように、誰かを助けられたら、やっぱりそれが1番の私の幸福なんだろうと思う。むしろ、もしかしたらやっぱりそれしかないかもしれない。


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