追憶の花弁に水は滴る。

桜の咲く春の日の朝。

朝露を落とす桜の木と足元に散り潰れた花弁、
その美醜両端が視界に映る度に
ふと思い出すことがある。

それは幼い頃の記憶。

サクラ、パンジー、タンポポ、マリーゴールド
サルビア、シロツメクサ、スミレ、チューリップ
ツユクサ、オオイヌノフグリなどの花。

園の花壇や周りに咲いたそれらを
童心故に悪気もなく手当り次第に摘み入れては
そこに水を注いで、揉んで、潰して、抽出して、
“色水”なんてものをよく作ったこと。


淡く染められただけのただの水。
色とりどりだが香りはどれも青臭く、
当然飲めやしないのに
きっとうすら苦いのだろうに
「美味しそう」 だなんて言ってさ。
とても綺麗だと思って夢中になって作った。

そうして繰り返した先には
幾つも並んだ淡い発色の膨れたビニール袋。
透明だった袋と水に色づけをしたことで
何処か満たされたような気がしていたんだ。

その一方で、
揉み潰されて浮遊し、或いは沈殿している
“花だったもの”にはあまり目を向けなかった。

何故か、汚いと思ったから。
お茶なんかで云う、
所謂“出涸らし”というものになってしまって、
「あんなにも綺麗に咲いていたのに。」と
なんとなくバツが悪かった。

まるで被害者のような気持ちでいた。

移し入れる際にはきっと、
余計なものが入らないようにと
丁寧に取り除いたのだろうな。
私はそういう人間だ。
子供の頃であれ、きっとそうだった。


ああ、その後どうしたんだっけな。
憶えていないんだ。
きっとペットボトルに移して
数日間は飾っていたのかもしれない。
或いは日が落ちるにつれて見飽きていって、
やがて流して捨ててしまったのかな。

こうやって忘れているほどに
興味なんて瞬く間に虚空へ薄れてしまって、
または何か別のものに引っ張られて、
やっぱり“花だったもの”なんかには
目も向けずに捨てたのだろうか。


また作ってみようか。

大人になったこの身体で、この心で。
綺麗な花を集めて、潰して、抽出して。
色づいた水と色を出涸らしてしまった花弁と、
そのどちらをも流してしまった後で、
私が終わらせてしまったそれを
今度はちゃんと偲ぶことが出来るように。

そしてまたいつか、
追憶に耽る時が来るのだろうか。
今みたいな
桜の咲く春の日の朝に重ねて---

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