8月17日の水槽「水槽のある部屋」(全編無料)
※今週は、ずっと水槽と文章でいこうと思います。
初めて一人暮らしを始めたのは、22歳の時だった。
大学を出て僕はプログラマーに就職した。
なんとか、当時は新卒にしては給料がいい方だった。
窓辺に小ぶりな衣装棚を置き、その上にコップを少し大きくしたぐらいの水槽を置いた。小さな金魚と一緒に暮らした。小指よりも小さい金魚を2匹飼った。卵の産み方を同僚から聞いて、毎日のように朝、挨拶して家を出た。
一人で暮らして1年が過ぎた頃。
あなたと出会った。
部屋に来たあなたは、金魚を見てエサをあげてもいいか聞いた。
この人なら上手く行くと思った。
二人で眠る寝室には、水槽を置くことにした。
美しい熱帯魚が、部屋の中に彩りを与えてくれた。
二人でみたいからと壁にかけたホームシアター用のスクリーンは、一度も使わなかった。
私は、転職してAI技術を活用した会社に入った。
家にいる時間は少なくなった。
あなたが癌だと知ったのもその時だった。
そう、そのことを話した日も部屋には水槽があった。
私は一人になった。
あなたの名残として、枕はいつも並べている。
もはや、生き物を飼うことは、効率の悪いことと考えられることに世界的になってしまった。食費も大変だし、死ぬのも大変だ。おかげで、金魚1匹がとても高級品になってしまった。
だから、壁に生みこまれた水槽に、専用の注ぎ口から水を入れて、AIがランダムに生み出す魚を毎日見る。組み合わせは数千億あるそうだ。今日も観たことの無い魚たちが泳いでいる。
定年退職して1年。
最近、昔のことばかり、思い出す。
なのに、大事なことはいつも思い出せない。
初めてあなたが来た日のこと。
何があったのか?
どんな会話をしたのか?
思い出せない。
でも、断片だけは残っている。
匂いのように、風のように。
水槽を見ると、小指よりも少し小さな金魚をAIが作っていた。
私は何故か泣いていた。
こんな大変なご時世なので、無理をなさらずに、何か発見や心を動かしたものがあった時、良ければサポートをお願いします。励みになります。