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江戸時代にタイ(アユタヤ王朝)宗主権下のリゴール国王になった日本人【後編】

1622年(元和8年)、カンボジアに遠征したソンタム王が惨敗し、命からがら逃げ帰るという事件が起こります。この背景には、大坂落城と豊臣方大名の改易によって大量に発生した浪人がカンボジアに渡って傭兵になっていたことがあります。日本兵は勝敗を左右するほど精強でした。
翌年、ソンタム王は将軍秀忠に宛て、日本兵のカンボジアへの渡航参戦を禁止するよう要請しています。
そしてシャムにも日本人部隊を中心とする強力な軍団をつくりあげたいと考え、長政が指揮官に任じられました。

長政は1624年(寛永1年)にもスペイン艦隊を破ります。
そして1626年(寛永3年)、長政は王室よりオークプラという官位を与えられ、1628年(寛永5年)には最高官位であるオークヤーにまで昇り詰めました。しかし、この頃から長政の人生は不穏な方向へ転回します。

1629年(寛永6年)、ソンタム王が崩御。長政は王位継承をめぐる王室内の抗争に巻き込まれます。
シャム古来からの慣習では王位継承の優先順位は兄弟(先王の弟シーシン)にありましたが、先王ソンタムの意向もあり、長政は日本の家督相続の通例をふまえ国王の遺児(ジェッタ)が即位することを主張しました。そうして王室はシーシン派とジェッタ派に分裂します。
長政の意見を支持した王族の宮内長官シーウォラウォンは、日本人義勇軍八百名を王宮に配備し、周囲をシャム軍二万人に守らせ、王子の戴冠式を強行しました。このときジェッタ王は15歳。シーウォラウォンは対立する王室内勢力に対し猛烈な粛清を敢行し、シーシンは刑死させられました。
さらにカラホム(シーウォラウォンから改名)は王位への野望を露わにし、施政能力のないジェッタ王を処刑。このとき長政は王都アユタヤにいなかったため、カラホムを止められなかったとされます。
カラホムは王子が成人するまでの繋ぎとして自らが王位に即くことを画策しますが、長政の進言もあり、王位はわずか10歳の王弟アデットウンに渡りました。

長政はこれらの王位継承にかなり深く関わっており、相当の政治力があったことが窺えます。長政はアデットウン王の成長を期待し、後見を目論んでいました。
摂政となり王室の実権を掌握していたカラホムは、王室内で強い影響力を及ぼす長政を遠ざけるため、当時隣国パタニー(マレーシア)との紛争で内乱状態にあったリゴールの長官に長政を推挙します。
リゴールはアユタヤからはるか南にある王国で、アユタヤの宗主権下にありました。リゴール平定に出立した長政と日本人義勇軍二千人は争乱を鎮め、長政はリゴール国王に任ぜられます。これはカラホムによる事実上の左遷であり、長政はアユタヤを追われたのでした。その間にカラホムはアデットウン王を殺害し、自ら王位に即きます。
アデットウン王の在任はわずか38日間、そしてこれらはソンタム王没後1年にも満たない間の出来事でした。

アユタヤでのクーデターを知った長政は報復を決意しますが、パタニー軍との戦闘中に右太ももに矢傷を負い、動くことができませんでした。
長政は、カラホムに罷免されたリゴールの前長官を警戒していましたが、その弟オークプラ・ナリットには心を許して身辺に置き、矢傷の治療も彼にさせていました。
オークプラ・ナリットはカラホムの意を受け、長政の傷口に毒の膏薬を貼り、それにより長政は命を落とすことになります。(諸説あります。)
1630年(寛永7年)、41歳でした。

長政の死後、王位は長子(セーナピモック)が継ぎました。母は現地アユタヤの人だと思われます。リゴールの前長官は長政謀殺の嫌疑を逸らすため、娘をセーナピモックに嫁がせました。
もともとリゴールのトップは王ではなく長官でした。そしてリゴールの長官はアユタヤ王によって選任されていました。
長政の子が跡を継ぐことは反感のもととなり、前長官が裏でリゴールの民を操りたちまち争乱となりました。セーナピモックはカンボジアかビルマに亡命したと考えられています。

カラホムは王位に即きプラサート・トーン王と名乗りますが、日本人義勇軍は王の正当性を認めませんでした。そして王への復讐を公言し、それが王の耳に入ったことでアユタヤの日本人町はシャム軍によって焼き討ちされます。
多くの日本人が死に、生き残ったものも海外に逃れ、日本人町は廃墟と化しました。

その後、海外に難を逃れていた人々が徐々にアユタヤに戻って来るようになり、2年後の1632年にアユタヤの日本人町は再建されます。
人口も400人ほどまで増えますが、1635年(寛永12年)、日本に鎖国令が引かれたことで衰退し、18世紀初めにはアユタヤの日本人町は消滅しました。

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