25分で観られるコンテンツは、25分ではつくれない
ライターを名乗り始めてから、早いもので5年が経つ。ライター生活の中で最も濃い時間を過ごしたのが、編集プロダクション「モメンタム・ホース」だった。
モメンタム・ホースはすでに解散してしまったが、当時の仲間とは今でもよろしくやっている。
例えば、このテキストも戦友たちと一緒に企画しているコンテンツだ。
編集者の小池真幸くんとライターの鷲尾諒太郎さん、そして僕の3人で「馬執飯店」なるマガジンを立ち上げ、月に一度テーマを決めて自由に文章を書いている。
商業的な文章ばかりを書いているので、自由な発想を忘れないよう、頭の体操として私的な文章を書くのが目的だ。
これまでのテーマは「俺たちのルノアール」「ドーピング」「夢」「サミット」「最後の晩餐」。どれも思い付きで決めている。
「馬執飯店」に投稿するコンテンツには、基本的にルールがない。テーマに沿っていればフォーマットはなんでもよく、「月末までにコンテンツを出せなければ、メンバーに飯を奢る」ということだけが決まっている。
ちなみに、今月のテーマは「料理」になった。
月初にテーマを決め、月内に投稿するレギュレーションを組んでいたが、いっても我々は社会不適合者だ。
「テーマを決める」という30秒で完了するタスクは忘却の彼方、締切3日前の6月28日に「じゃあ、なんとなく料理で」の一言でやっと決まった。
さて、書いていこう。
大久保の超人気店「魯珈」の齋藤絵理さんがすごい
僕から見える景色かもしれないが、SNSのタイムラインで料理コンテンツを目にする機会が増えた。
Twitterでは「自称料理通の外さない店」が、Instagramでは「彼氏がつくってくれるパスタ」が、TikTokでは「コスパ抜群のデート飯」がよく目に付く。
ただ、正直いって、どれも心が躍らない。そもそも食にそれほどこだわりがあるわけではないし、「映え」にも「コスパ」にもあまり関心がない。映えなくても美味いものは美味いし、美味い飯には高い金を払えばいいと思っている。
そのくらい、料理には無頓着だ。ただ、そのくらい料理に無頓着な僕でさえ、東京は大久保に店舗を構える「魯珈」のオーナー・齋藤絵理さんを取材した『情熱大陸』はスルーできなかった。
齋藤さんのこだわりは、とんでもない。
「フォトジェニック」「バズる」——。もちろんそういったことも意識していると思うが、そんなことは二の次で、彼女はとにかく「美味しいカレーをつくる」ことに情熱を注がれている。
そして、齋藤さんのカレーへのこだわりを、わずか25分の動画にまとめきる情熱大陸スタッフもとんでもなかった。見る人の心を掴んで離さない、冒頭からおしまいまで緻密に計算された構成は、賞賛されるべきものだと思う。
・・・
伝説の料理店「京味」の主人であった、故・西健一郎氏は「料理は限りない道を探求すること」だと言った。これが真実ならば、いわゆる「料理」に無頓着な私でも、それを楽しむ権利とチャンスがあるはず。
これから僕がする「料理」は、日本で最も有意義な25分間と呼び声高い(当社調べ)『情熱大陸』という限りない道のコンテンツ研究だ。
え、なになに。「料理コラムとしては、ちょっと無理があるテーマ設定なのでは?」って……?
おっしゃる通りだよ。
映像から、匂いがする
番組本編は、齋藤さんがカレーを煮込むシーンから始まる。大きな鍋でカレーが煮込まれる、誰もが一度は目にしたことのある風景だ。
しかし、僕は釘付けになった。
というのも、ナレーションが「映像に匂いを付けた」からだ。動画を“七度観”したが、たしかに匂いがした。
この時点で、もう最後まで観てしまうことが確定した。
ナレーションが終わると、「カレー好きを唸らせるカレー」の美味しさを、お客さんの表情に語らせる。
著作権の関係でスクリーンショットを載せられないのが残念だが、恍惚とした表情が、飛ぶほどに美味しいカレーの味覚すべてを物語っていた(「コク深い」などとチープな表現を使わず、伝達方法を「お客さんの表情」に委ねたことで、視聴者に解釈の余地を与えていたように思う)。
さんざん視聴者の視線を奪った後は、「お店の凄み」が行列の映像とナレーションで示される。
そして、ナレーターが語った「お店の人気ぶり」を捕捉するように、お客さんのコメントが流れる。
「はじめて食べる味」「あの人は天才なんです」「はまってしまって抜け出せない」。
今度は「齋藤さんの凄み」を、ナレーションと本人の言葉で明らかにしていく。
まずは、ナレーション。「スパイスの魅惑に心をときめかせていた」と説明し、彼女がどのような人物であるかを匂わせる。
ここで、本人のインタビューをすかさず挿入。
注目してほしいのは、ナレーターと本人が言っている内容は、「ほとんど同じ」だということ。「パウダースパイスに心がときめいている」ということを、繰り返し説明している。
どうして、あえて同じことを繰り返すのか。その理由は「ナレーションだけでは伝わりきらないから」だと推測できる。
「心をときめかせていた」と丁寧に説明したうえで、その本心は分からない。ひとくちに「ときめき」といっても、いろいろある。
そこで、スパイスをどのように愛しているのかをより具体的に話させるために、彼女本人の言葉を利用して「かわいい」と付け加えているわけだ。
強烈な描写と文句の付けようがない実績で視聴者の関心を十分に引き寄せてから、番組はようやく自己紹介へと移る。
ここで、映像が「インドを旅する彼女の姿」へと切り替わる。「ただのカレー屋ではない」ということの示唆だ。
そして、ナレーション。
ここまでで、やっと「冒頭」が終了する。記事でいえば「リード」に当たる部分だ。
リードの役割は、読者を釘付けにし、最後までコンテンツを読んでもらうこと。きっと映像でも同じことがいえて、その視点で見れば、齋藤さん回のそれは完璧だった思う。
ストーリーと時系列は「似ているようで違う」
ここから、いよいよ本編(ボディ)。物語は「一日密着編」「原体験編」「挑戦編」の三部で構成されており、主人公の一日の始まりからスタートする。
「一日密着」編
リードで彼女の凄みを見せたかと思えば、今度は一転して私生活へと切り替わる。
すっぴんの彼女が、限られた化粧品でメイクをする姿を映し出す。ここでオンとオフのギャップが生まれ、視聴者に共感の余白ができたように思う。
ここから物語の「クライマックス」に向けて、少しずつストーリーの勾配が大きくなっていく。少しずつギアを上げていく最初の足がかりとして紹介されるのが、レシピのメニューだ。
このタイミングで、ナレーターが「週に一度、必ず新しいカレーをつくる」という、彼女の「自分ルール」も紹介。
2019年時点で、開発したメニューは200を超えていたそうだ。もはや、スパイス好きのレベルではない。さすがに興味を持ってしまう。
ちなみに、「自分ルール」はナレーターに語らせているのがミソだと思っている。(自分の口から話すと、どうしてもナルシズムを感じるし、本人的にはそれが普通ってのが余計に狂気味を増す)。
スパイスへの飽くなき好奇心も、もちろん併せて紹介される。
カルダモンを「気品あふれる」、クローブを「見た目がワイルド」と、それぞれを独自の例えで表現され、ここでリードで語った“スパイス愛”をしっかり回収。
映し出されたカレーを仕込む過程にも、編集陣営の一工夫が見える。「スパイスの色、音、そして香り。五感を研ぎ澄ます」というナレーションが入り、すでに本人が話した「グラムをメモっても、つくれないと思うので大丈夫です」という伏線を、こちらもしっかり回収していた。
ここからしばらくの間、「映像とナレーションのコンボ → 彼女の言葉」で料理シーンを公開していく。
このパートは時間でシーンを区切りながら展開されていて、開店、夕方、締めの時間で、それぞれに彼女の日常が映し出される。
閉店までを紹介して、10分少々。物語の「表側」に、25分の中でかなりの時間を使っていた(過去に触れることなく、最もインパクトがある「今」に焦点を当てる構成は、ライターとしても参考になった)。
お店が閉店したタイミングで、これから物語の「裏側」がスタートする。その幕開けを告げるのも、ナレーターが再び語る、彼女の「自分ルール」だった。
「原体験」編
物語はここで、現在から過去へとドラスティックに切り替わる。
ここで紹介されるのは、界隈ではその名を知らぬ人がいない名店をつくった「天才」の、天才ではない過去だ。
「いかにすごい店か」「いかに狂気的なこだわりを持っているのか」で視聴者の視線を奪ったために、彼女を特別だと思った人がいるかもしれない。
ただ、ナレーターが「なんでもない」彼女の幼少期を語り、そのイメージを払拭。
さらに、両親の言葉も活用して「天才ではない過去」を裏打ちしたところで「彼女は特別なのではなく、私たちと一緒だったんだ」と、グッと親近感が生まれた。
「挑戦」編
彼女の毎日を映し出し、その原体験に触れ、現在に至るまでのストーリーを見せる。その後、物語のシーンは再びドラスティックに切り替わっていく。
お店の休日、彼女は視察を兼ねて(?)荻窪と大阪のカレー店へ。
彼女の様子をナレーターが語り、解説を加える。そして、本人のコメントを重ねていく。
この構造はリードと同じで、本人が話すべき部分と、ナレーターが解説すべき部分で分かれている。例えば以下のように、繊細な表現は本人に語らせるのがベターだ。
他店の味を求めて旅する様子は、この先に続く山場への伏線。新しい味に感動し、衝動を抑えられなくなり、彼女はさらなる成長を求めてインドへと向かう。
インド遠征では、貪欲に成長を求める様子が映像で映し出される。
大繁盛店を築き上げてなお、さらなる進化を目指している姿を、片言の英語でインド人に体当たり取材をしていく本人の姿勢で見せる。彼女が自ら見つけた発見と反省は、もちろん本人の言葉で語らせる。
ナレーションで客観視し、本人の言葉を添えていくスタイルは、とても説得力が生まれるフォーマットだと思う。
なんでもかんでもナレーターが話したり、全てを本人が語ったりするわけではないからこそ、本人から出てくる言葉に毎度感心してしまう。
雄弁に語る「締めの一言」
最後に、動画の締め。締めパートは、インドへと旅立った「挑戦編」から地続きの内容になっている。
締めの一言は、本人に語らせることもあれば、ナレーターが語ることもある。齋藤さんの場合は、前者だった。
インタビューの最後に投げかけられた、「今年の抱負は?」という問いに対する回答が、「あまりにも本人らしさがうかがえる発言だったから」だろう。
意図的につくる「解釈の余地」と「共感の余白」
駆け足で紹介してしまったが、視点を変えて観てみると、本当に学び深いコンテンツだった。
当たり前だが、25分で観られるコンテンツは、25分ではつくれない。瞬きを忘れて一気見してしまう編集の滑らかさに、編集陣営の本気と苦労が想像できた。
冒頭で「私的な文章を書くことが目的」といったものの、またもや商業チックになってしまった。
とはいえ、せっかくなので、すぐに応用できそうな点をまとめておく。
❶ パラグラフは、「ナレーターの言葉を本人もしくは第三者の言葉(表情)で補足する」パターンと、「本人が語るべき話をした後にナレーターが端的にまとめる」パターンの繰り返しで構成されている。
❷ 限られた尺の中で、最もボリュームを割くべきは現在の話。過去(原体験)はあくまでさらっと触れる程度でいい。また、原体験を出すのは、序盤ではなく中盤。伏線を回収するために存在する。
❸ 優れた構成には、「解釈の余地」と「共感の余白」が存在する。解釈の余地を大きく残すと、バイラル性が高まる。なぜなら、想像力が働くから。想像力が働くと、誰かに説明したい欲求や、コンテンツを繰り返し見たい欲求が高まる。共感の余白があると、自分ごとだと捉えてもらえる。どれだけ圧倒的な実績があっても、少なからず一般人(=大多数の読者)と共通するポイントがある。それらを要所要所で見せることで、読者との距離を縮めることができる。
(*)齋藤さんの動画をはじめとする『情熱大陸』のアーカイブは、14日間無料で閲覧できるそうです。この記事を楽しく読んでいただけたのであれば、ぜひ答え合わせ的にチェックしてみてください。
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