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その場で怒れない私にとって、noteはセラピーでもある

先日、私のnoteを読んだという知人から「ひとみさん、私のこと怒ってますか?」と連絡があった。

何のことかさっぱりわからず、知人が読んだという該当の記事を見返すが、心当たりがない。
とりあえず何も怒ってないことを伝え納得してもらったが、知人を不安にさせてしまったことを反省した。

怒りを感じた時、私はその場で怒ることができない。

とても失礼なことを言われたりされたりされると、フリーズしてしまう。涙が出ないように、怒ってこの場の空気を壊さないように。それだけを考えてにこにことその場を取り繕い、後になって腹わたが煮え繰り返るほど、コントロール不能なほど怒りの大津波が襲ってくる。

一時期、その場で言えなくても後からでも言おうと「あの時つらかった」「あの時いやだった」と自分の気持ちを言うチャレンジを2~3回したことがあった。
しかし明らかに嫌な顔をされたり、予想以上に不安にさせてしまったり「その場で言えよ!」と逆切れされたり、余計に情けない想いをしてしまうので後出しで言うのはしないようになった。

ただ文章を書くのを始めてから、書いているうちに怒りが成仏していくことがあり、特にnoteを始めてからだいぶ生きるのが楽になった。

どうしても許せない存在のことを考えているとき、心の中にある池は激しく波打っている。しかし何が起こったのか読者にも伝わるように書いていると、段々と心の波は静かになって、静かになった水面には泣いている自分の顔が映っているのが見える。

さらに書いていると、自分にひどいことを言ったりひどいことをした人間は単なるトリガーであり、心の奥にはまだ癒されてない深い傷があることに気づく。

人間はこの世に生まれるとき「私には価値がない」「私は愛されない」「私はひとりぼっちだ」「私は何をしてもダメだ」といった大きな傷を持って生まれてきて、一生をかけてその傷を癒していくと言われている。何気ない誰かの言葉で傷つく体験は、同じく何気ない誰かの言葉で救われる一瞬のためにあるらしい。

生まれ持った傷を深め、自覚させる役割を負うのは基本的に親なのだが、パートナーや時として赤の他人がその役割になることもあるそうだ。あまり傷つかない幸せな人も世の中にはいるが、その分、その人の周りにいる人は多く傷ついていてその関係性に悩むなど、この世界の収支は取れているのを感じる。

怒りが収まらないというのは、深く傷ついたということでもある。

その傷が癒されていくプロセスを味わうのが人生であり、書くことがその助けとなるなら、怒れない性格も、それをこうしてnoteのネタにしてしまう自分も、まあ良いのかなと思う。すぐにその場で激昂できる人が羨ましいけど、私はその分書くことで心穏やかに過ごしていく。。

あ、でも私のこと詐欺師って言った花屋のオッサンは、絶対許さん。
ま、一人くらい、いいか。