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リトリートに参加して、生ゴミを持ち帰った話

美味しいものを食べたり観光地を巡る、ザ・旅行も好きなのだが、自然豊かな場所で自分や仲間と対話しながら過ごすというリトリートが好きだ。

先日も退職してすぐ、瞑想のリトリートに行った。このリトリートには何回か参加しており、座って行う瞑想が苦手な自分にとって、動く瞑想をしてくれるこのリトリートは1年に1回参加するのが常になっていた。

リトリートを主宰してくる人は、数日前までインドに行っていたらしい。だからだろうか、駅に到着してからタクシーを予約しておくのを忘れていても「全てが素晴らしいよね!」と言ってニコニコしていた。

会場について、瞑想をして20:40ごろ夕食。
てっきり19時くらいには夕食を食べれると思った自分は、食前の薬を18時くらいに飲んでしまい、その影響か胃がキリキリ痛い。

夕食後、瞑想をして終わったのは深夜の1時。
てっきり日付が変われる前には休めると思っていた自分は、瞑想の途中寝てしまった。主宰者はやはり「それも素晴らしいよね」とニコニコしている。

翌朝「11時には完全撤収」の旨が主宰者から伝えられる。プログラムは10:55に終了。

予想どおり時間通りには荷造りや掃除が間に合わず「せめて前日に言ってもらっていたら荷造りなどもう少ししていたのになあ」と思いながら素早く荷造りをして会場に戻ると、会場の管理人の方が主催者に「12時には次のグループが来るんだから、11時には出てもらわないと困るよ」と声を荒げて言っていた。
なぜ癒されにリトリートにきたのに、他人が怒っているところを見なきゃいけないのだろう。

で、タイトルの生ゴミである。

会場はゴミは全て持ち帰りになっていた。燃えるゴミやプラゴミは既になく「ゴミは全部、生ゴミも含めて私が持って帰るからね!」と主宰者が言っていたのだが、生ゴミだけは忘れていたようでキッチンの隅に大きな塊が3つ置いてあった。

ふと振り向くと、管理人さんに怒られながらにこにこペコペコしている主宰者がいる。この人にとっては全てが素晴らしくて、私のことなど見えていないのだろうなあ。

そんな卑屈な気持ちになってしまい、私は生ゴミを自分のカバンに詰めた。初夏の陽気に、袋の締まりが悪かったらしく、家に帰ったら自分のお気に入りの服に生ゴミの汁がついてしまっていて、帰った後、部分洗いをしたけど臭いまでは落ちなかった。

その話を友人にしたところ「別に持って帰らなきゃいいじゃん」「生ゴミ帰りましたよ~アピールしてもよかったんじゃない?」と言われたりした。全くもってその通りである。

一つ言えるのは、私は「自分だけが楽しければそれでいい」と思っている人への激しい嫌悪感があるということだ。
今回の主宰者は場をリードするより、どうも自分の楽しさや幸せを優先しているような節があった。

それはもちろん良いことなのだけれど、お金をもらって場づくりをしている以上は自分よりも参加者を考えなよという気持ちになってしまう。

だからもう「生ゴミ忘れてますよ」というやりとりさえしたくなかった。もうこれ以上関わるくらいなら自分でゴミを持って帰ってしまおう、という考えに至ったのかもしれない。

付け加えておくが、主宰者には非はない。「自分の喜びは封印しなければいけない」という私の投影を引き受けてもらっただけである。

他者への批判が止まらない時、それは自分の中に禁じている何かがあるということでもある。目の前で起こることは全て自分の心に起こっていることの鏡だ。だからこのnoteは別に誰かへの不満を語りたいというわけでは決してない。


・・うん、でもやっぱりリトリートに行って生ゴミは持って帰りたくなかったな。

それを認めるところから始めようと思う。

「仁美さんは文章の先生だから、すぐ言語化できるんでしょうね〜いいなあ」なんて言われたこともあるけど、残念ながら現実はまだまだこんな感じです。