見出し画像

頭がいい人とは、結局のところやさしい人のこと

実家に帰ったある日の朝、母から突然「手術、しないの?」と声を掛けられた。

私は9センチの子宮筋腫が腹にある。薬物療法もあるが、摘出手術してしまえば一気にカタが付く。

母はかわいい娘が結婚できない理由(人見知り、性格が暗い、声が低い等)をどうも直視したくないらしく、よく「切っちゃいなさいよ、筋腫」と私に言ってくる。
母の中では娘が手術を受け、筋腫を切りさえすれば不都合な真実はすべて解決すると思っているらしい。

母だけではなく周りの人に自分の病気の話をすると、半分くらいの人は黙って何も言わないが、半分くらいは「早く手術してしまいなさいよ!」という反応が返ってくる。

薬物療法の副作用で会社で泣きだしてしまった話とか、子宮を切り取る手術となれば出血量がものすごいことになり、貧血の自分には難しいなどの話をすればたいていの人間は黙るが、そこまで話しても「でも、手術すれば全て解決なのに!」と、怒り出す人もいる。

そういった場面に出くわすと、私はいつもライター古賀史健さんの「リスペクトとは、どういうことか」という記事を思い出す。

古賀さんはサッカーの試合を見ていたとき、選手に「もっとこうすればいいのに」と思ってしまうが、同時に「選手はそんなこと、当然考えているよな」という視点を忘れないようにしているらしい。

テレビの前のにわか監督が思いつくプランなど、最前線で当事者として戦っている選手本人が思いつかないわけがない。
瞬時に次のプランを複数想定し、コンマ何秒の世界で取捨選択して戦っている。そう相手の取った行動に想いを巡らすことがリスペクトの本質だと古賀さんは述べている。

テレビで将棋や囲碁の勝負を中継する際、解説者という人がいる。

今この勝負がどういう局面なのか、どういう意味を持つのかを別室で解説してくれるのだが、聞いたところによると「解説者は例え勝負している人たちより有段者であっても、次の手を読み切れない」らしい。
ふつうは出来る人が一番早く正しい答えを導き出せそうなものだが、なぜか。

答えは「解説者にとって、しょせん他人事だから」らしい。

もちろん次の手を予測できるケースも往々にしてある。しかし勝負している当事者たちは文字通り命をかけて、次の一手を生み出している。今まさに最前線で戦っている人間の気迫を、別室で解説している人間が同量持つことは難しい。

病気でいえば、最も最前線に立っているのはその患者本人だ。

横で見ているだけの人間はどうしても「こうすれば治るよ」とか「なんで手術しないの」と言いたくなる。病気があるという現実は誰だって心地よくない。彼らにとっては私の筋腫などお風呂のカビと同じ、さっさと片づけてほしい事柄なのである。しかしその不都合な現実と常に向き合っているのは、誰でもない患者本人だ。

私たちはすぐ「こうすればいい」とか「ああすればいい」という発想になる。他人事はしょせん、ひとごとでしかないからだ。

しかしその選択を取らないことに「もしかして、あえてその選択をしていないのでは。なにか意味があるのでは」という自分事のように想いを巡らせる人というのは、本当の意味で賢者であると思う。

「本当に頭のいい人とは、やさしい人のことだ」という言葉があった。
病気になってしまったことは辛いことではあるが、これも賢者の道に進むためのプロセスと捉えて、今日も明日も生きていく。