見出し画像

羽ばたいてる間は消えないから

私はプロコーチではないけれど、コーチングを学ぶ中でたくさんのプロコーチと出会ってきた。
素晴らしいと思うコーチとの出会いも多いが、その一方で「ん?」というコーチさんもいらっしゃる。

その一例が「私はもうマイコーチをつける必要はないから」と、長らくコーチングを受けていないコーチ。そしてもう一つが「私は生まれながらのコーチだから」と継続学習をしていないコーチである。

自分自身もたまにコーチングを頼むことはあるけれど、上記のようなコーチは無意識に避けていた。
資格が全てだとは思ってないし、コーチをつけてなくても、継続学習をしてなくても素晴らしいコーチも中にはいる。けれども自信満々に「私にマイコーチはいらない」「私に学びはもう必要ない」と言い切るプロコーチを、うまく言えないけどどうも信用できないでいた。

・・という私のぼんやりした感情を言葉にしている人がいた。
自分が言葉に出来ない想いを言語化している人がいると、私は嬉しくなってしまう。

全文に渡って共感したけれど、とくにうなづいたのがコーチを選ぶ際に

(そのコーチの中に)コーチングに対してリスペクトがあるかどうか?を見ているのかもしれません。

というところだった。

こちらは有名なダニングクルーガー効果の図。

人は誰でも、何かを始めたばかりの時は全能感を感じる。しかしやがてそれだけでは立ちいかなくなって壁に突き当たり、そこからもがいて成長していくという一連の流れを切り取ったもの。図では上り調子で終わっているけれど、実際にはどんな職業もこの繰り返しになる。

私が「ん?」と思うコーチは(辛辣な書き方になってしまい大変恐縮だが)これまでもこれからも、ずっと最初の山にいる感じがする。なんというかコーチングという道を歩いている人でなく、ずっとそこに立っているだけの点のような感じがするのだ。

一方私が「この人いいな」と感じるコーチの方は、ずっと歩き続けてここまで来たような感じがある。絶望の谷に何度も落ちて、そのたびに啓蒙の坂を見つけてきたのだろうと思わせる何かがあるし、いざというときコーチングの神様が守ってくれるような雰囲気を持っている。それがコーチの「コーチングに対する敬愛の眼差し」としてクライアントには映るのかもしれない。

さて、コーチをライターに置き換えてみると。
書くというのはただでさえ一方通行で、万能感を得やすい。それを仕事にすることを目指すのなら、気を付けないとすぐ馬鹿の山で独りぼっちになってしまう。

ライターが馬鹿の山を下りるために最もいいのは、その道の先輩に添削してもらうことだと思っている。しかしこれが何度うけてもきつい。物言いがきつい講師の方だと自分を否定されている気がするし、他の参加者が追い詰められてると「そこまで言わんでも」という気にもなる。それでもやはり私は継続の大地を登っていきたい。

久しぶりに来月ライティング講座を受けることにした。講師の方は切れ味鋭く、大変厳しいという評判だ。それでも歩き続ける間は、文章の神様が見てくれていると信じて頑張ろうと思う。

というわけで私が絶望の谷に落ちるエッセイが来月あたりに公開の予定です。どうぞお楽しみ?に。。ブルブル。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。 サポートして頂いたお金は取材や書籍など、記事執筆のために大切に使わさせて頂きます。