好きな服を着ろ
今住んでいる場所には、庭があり、風呂あがりに涼むなどして優雅に過ごしている。初夏にしては、ちょっと暑すぎるけれど、気持ちの良い季節です。
肌を撫でる風の心地よさを感じつつ、ふとしたことですが、「他人に見られていれば、これはできないことだな」と、自身の下着姿に意識がゆく。
「裸で風を感じることを、咎められてよい人間など、元々はいなかったはずなのに。誰にだって好きに服を着させろよな。」と、ふいに、初めてそれを考えた歳のことまでを思いだしました。
アルバイトを始めた15の歳から、思えば意欲的に働いたものでした。地元のアルバイトにも慣れきった当時、高校生の夏休みというものに存外の不満を感じていた私は、「リゾートバイト」と呼ばれるものに目を付けました。それは、単に、住み込みの短期労働者のことですが、旅館やホテル、山小屋やスキー場など、短期間の住み込みアルバイトのことをそう呼んで、若者を集めていたのだった。生まれてこのかた、実家から離れたことのない私にとって、それは理想的な夏の過ごし方に見えました。
我ながら微笑ましいことですが、当時の私は、とても“意識が高”かった。親元から離れることも、新たな土地で暮らすことも、夏休みに友人と会えないことも、すべてが望ましいものと感じていました。
そのため、自分に想像がつくような土地や、難なくこなせるだろう仕事先は度外視でした。最終的に仕事を選ぶこととなった理由が、未だに阿保らしくおもえるために、当時の情熱的な志をおぼろげに覚えています。応募したのは熱海でのライフセーバー業務だった。
東京からそれほど遠くなく、その気になれば歩いてでも帰ってこれる気がすること、(綺麗そうな)海の町であること、業務の想像が全くつかないこと、そしてなにより最も重要な決定打となった理由は、「たぶんまだ永遠に泳ぐことができないから」でした。
これについては馬鹿丸出しというよりほかないのですが、どっからどうみても完全無欠の脳筋でした。人間は、永遠に泳げなくて困ることなどない。「まだ」とかいって、いつか永遠に泳ごうとするんじゃない。
しかし、そうは言っても、永遠に泳げないという、単なる事実が、若い身空にとって受け入れがたいものだった。若者特有の全能感からくる荒唐無稽な夢想は、時に思いもよらない力を生むものです。
まぁ、動機はともかくとして、そのライフガードの仕事は、当時の狙い通りに、かけがえのない思い出となった。社長をはじめとした先輩方には、望んだ以上の世話をやいてもらった。全員が名だたる体育会系の大学生、もしくはその出身者で、絵にかいたような肉体派かつ情熱家だった。部活というものが心底嫌いで、学校では帰宅部を専攻していた私にとっては、目上の人間から手厚い優しさや厳しさをぶつけられる機会に接して、形容しがたい新鮮な感覚を覚えたものでした。
身体的には地獄のような業務時間外の朝夕練、(あたりまえだが)お酒も飲ませてもらえない懇親会、知らない町にもかかわらず、組織の人間としての立ち居振る舞いを正されなくてはならない日常生活。そのすべてに一度ならず、いく度もぶーをたれる私に対して根気よく丁寧に叱ってくれたことには、なぜそこまでしてくれるのか、わけがわからない、という思いで感謝しています。
そんな一年目の経験で感じたのが、ほかならぬ冒頭の感覚でした。ライフガードの我々は、業務内はもちろん、業務外の時間もほぼ半裸(ハーフパンツとランニングシャツのみなど)ですごしていたし、暑い夏の間、常に練習で火照った身体をもてあまして、出来る限りの涼しい恰好でいたものだった。それはさながら、下町の爺さんがランニング股引で出歩いているようなもので、海辺の町だとはいっても、若く日焼けした筋肉達でなければ、あまり許される気がしない恰好だった。海での練習の際などは、海パンさえ脱いでしまう事も多かった。全身で唯一日焼けをしていない部分が、水面を滑るからか、「白イルカ」と呼んでいたことを覚えている。
これほど世界の空気に肌でふれたことはありませんでした。それは、あまりに自然のことのように感じた。我々が素肌で世界を味わうことを、いつ誰が禁止したのだろうか、と、当時よく考えていました。いつから我々は正しい場所で正しい服を着れるようになったのだったか。
その縁から始まった夏休みのライフガード生活も、すべて心地いいものであったはずなく、数年後には大学生だった先輩達も去り、代わりに大学生となった自分の役割も変わりつつ、少なからず苦々しい思い出を残すこととなりました。学生中心だったその職場で、わずか数年後にベテランとなった私は、年少の後輩たちとの睦まじい関係を楽しむと同時に、社員となった年長者との関係で大きく苦しむことになった。
採用当初は私を「先輩」と呼んでいた五つほど上の彼は、アルバイトを経て正社員になってからというもの、うるさい行為規範を強要してくる存在となった。彼は、正直でお人よしの、今思い出したとしても好ましい人格者だった。年少の私に対しても公平な態度を保ちつつ、他人(私)との関係を喜んでくれるような善い人間でした。
体育会系の組織という点で、今風に言えば「ブラック企業」であったその会社では、社員の入れ替わりがとてつもなく早かった。ほとんど隔年で入れ替わってゆく社員に、当時の私も不穏なものを感じなかったといえば噓なのだが、社長に対する評価の善さも悪さも、その情熱にあるために、問題は簡単なことではなかった。とにかく、新入社員の彼は疲弊していたし、鬱憤を募らせていたはずだ。
なにがそうさせたかについて、具体的にはもう興味がなくなってしまった。とはいえ、当時まだ未成年であった私が、強く社会規範を意識する、おあつらえ向きの契機でした。
その彼は社員となってから、自身の彼女をアルバイトとして加え、主にその女性から、私が理由を把握することができない嫌悪を常に向けられることとなった。同い年の、美人で気が強い女性でした。
しんどすぎて記憶がおぼろげではあるが、彼女と彼が執拗に文句を言っていた大半のことが、高校生アルバイトに対する指導不十分についてだった。
私が採用された年度と違い、数年後の職場では半数が高校生となっていました。社長が言うには、「雄大(遊心俗名)を雇ってみて、高校生を雇うことにした」とのことだったし、それについて誇らしい思いも当然あった。だがしかし、高校生集団には不安の残る、チームの高い能力が求められる現場でした。
そんな中で、社員としてチームの筆頭となっていた彼には、古くからいる私が高校生たちと仲良くアルバイトをしている事自体、面白くなかったことは想像に難くない。彼に同調する彼女のことも自然現象としては理解ができる。
とはいえ、まぁ、無茶苦茶なカップルだった。私にとって別人となった彼は、「アルファオス」として、群れの中で統率力を発揮しなければならなかったのだし、その隣の「メス」となど仲良くできるはずもなかった。
そして皮肉にも、その場で私が最大の負い目を覚えることとなったのは、他でもない、「泳げない」ことだった。
そのころまでには、ほとんど永遠に泳げるようになっていたとはいえ、水泳教室や競泳の経験がない私は、それほど泳ぎが早い方ではなかった。また、泳いで人を引っ張る必要があるライフセービングの性質上、体重60Kgに満たない私にとっては、たった20分ほどのライフセービングデモンストレーションでさえ大変なものだった。
それに比べて、社員の彼はまるで水棲ゴリラだったし、彼女も泳ぎが得意でした。「そんなことさえまだ我々と同じほどには、上手にできないのだからわきまえろ」と言われてしまえば、事実がどうあれ、尊厳を失う思いでした。
今になって見ればの話ですが、社員の彼も、社会での第一歩を踏み出したばかりの若者だった。「二十代のうちに2000万円貯めて、ペンション経営しようとおもってるんですよ。」と言う、スノーボードが大好きだった彼は、堅実な働きものだった。思い出してみても、(彼女に大きな顔をさせたこと以外には、)嫌うところのない誠実な人でした。
彼なりに、年齢層の若くなった組織をまとめあげることに苦労していたのは事実ですし、有名体育大学生がゴロゴロしていた時代のチームを懐かしく思う社長からの圧力も相当にあったはずです。忙しそうにしつつも、カラオケでの懇親会を企画したりしていたところを見ると、彼女と二人で真夏のオリオンをデュエットしていたクソキモエピソードを忘れてあげるとして、皆で仲良く仕事をする努力をしていたことは間違いない。
長くなってしまった。何より言いたいことを先に言っておかなければならなかった。
人が「服」を着るならば、「裸」でいるよりも大きな福利を認めるがゆえに自分が好きで着ていることを自覚するべきだ。そうでなければ「裸」であったことさえ忘れてしまう。
これは言葉にするにも涙ぐましいことですが、彼も私も、「服」を上手に着るために、必死にもがいていました。まだ自分たちが「裸」の子供にすぎない、その事実を何よりも恐れていました。
しかし、その結果として「裸」という前提が無きものにされてしまうならば、いかなる「服」を選ぼうとも、異なる「服」との闘争は避けられない。「服」には規範があり、意思があり、あなたの選んだ趣向があるけれど、それをあなたは絶対的な正義と見紛うからです。
なんのために、この「服」を着ているのか。「この服が正しいからだ」と言うその瞬間に、他の「服」はもちろん「裸」すらも忌むべき迫害対象にしかならない。
我々はいつでも規範以前へ立ち戻って「服」の差異について認め合うことができるはずだ。だがそれは、すでに「正しい服」を沢山着てきた私たちに簡単なことではありません。そのためには、「服」を一旦は全て脱いでしまうことで、ふたたび自覚的に着なおすような特殊な努力が必要です。
「裸」であったことなど、もう誰も覚えていない。「服」を脱げなくなった私たち大人にとっては、なんのために着た「服」だったか考えることはおろか、「服」を着ていることさえ思い出せないような愚かさがある。
本来であれば、裸の原始人として風の流れを肌に覚えていればよかったはずの私たちが、何ゆえ「服」などという障害物を、自身と世界との間に、わざわざ挟まなければならなくなったのか。その理由は私たち一人一人が「服」を着ることによって幸福になっているという事実にあるべきです。
別に私は「人前で裸になれ」と言っているわけではないし、それはほとんどの場合で大いに無礼だ。誰もあなたの「裸」など見たくはない。自分の「服」をしっかりと自覚さえしていれば、なぜその「服」があなたにとって善いものなのかわかっていれば、わざわざ「裸」を見せ合う必要もない。我々はたまたまこういう「服」を着ているだけで、わざわざその違いで闘わなくても、済むことの方が多い。
「社会や他人のため、ひいてはあなたのためにこの服を着てあげている」と言われると、いつも閉口してしまうのだけれど、しかし、同じ内容を「私の好きな服を着ている」から話してくれさえすれば、私はいつでも楽しく話を聞くことができる。
それを「単なるファッション」だと、言われることが大人にとっては恐ろしいものですが、だからといって自分が着ている服についてを他人のせいにする必要はない。
これは個人的な好みですが、誰もが称賛するような服を着ている人間よりも、いつでも「白イルカ」になれる人の方が、面白いじゃないですか。好きに服を着るのはそれから勝手にやればいいことです。
あの夏に「白イルカ」だった仲間が、その後どんな服を着ていても、なにやら好ましく感じたせいなのか、「服が脱げる人だ」と思える人間に信頼があるのは今でも変わらない。大人が「裸」を思い出すのは、海で海パンを脱ぐことよりもよほど難しいけれど、努力する価値は大いにあります。裸で生まれてきた我々は、死ぬ時にも必ず「服」を脱がなければならないのですからね。それまでせめて好きな服を着ていましょうよ。
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