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No.2 カントの認識論とコンピュータ



4. ロボマインド・プロジェクトとカントの認識論

最近、カントの解説書(御子柴善之『カント純粋理性批判 シリーズ世界の思想』)を読んでいる。知覚の予料やら、カテゴリー概念のところを読んでいる。アンチノミーの部分はまだよくわからない。しかし、物自体の世界を、我々人間が、感性を通じて受容し、悟性を通じて、バラバラな知覚を合成し、統合して、一つの認識にしていく、そのメカニズムをよくもまあ、『純粋理性批判』にまとめたものだと思う。デカルトの『世界論』をチラ見したが、デカルトも、我々が目で見ている世界は、本当の世界ではなく、いわば頭の中で作り上げた世界であるようなことを言っている。

カントによれは、我々が見ている現実は、ものそれ自体ではなく、我々の頭が作り上げた、すなわち、感性と悟性の結合によって作り上げた世界であるという。これはベルグソン的に言うと、イマージュということになるのか(『超要約哲学書100冊から世界が見える!』、白取晴彦、ベルグソンの項目)。ベルグソンは『道徳と宗教の二源泉』において、あの世についても言及しているというが、まだ読み切れていない。

あの世といえば、この世ではないわけだから、カントがいう、人間的な世界の悟性と感性とは違う世界であるかも知れない。つまり、時間という制約や、時間というカテゴリーの影響を受けない。詩人のランボーは「永遠」というが、人間もチラッと、そうした時間の制約を受けない領域を感じる時があるのかも知れない。

あの世は、時間の制約を受けない。時間という感性による受容がない。時間による自己限定を行わない。広井良典氏は『無と意識の人類史』(東洋経済)の中で、時間は宇宙の誕生とともに生まれたという。物理学者ホーキンズの言葉を引用しながら、宇宙の始まりの「前」と、宇宙の終わりの「後」には、時間は存在しないという。

とするならば、時間は宇宙と共に存在するようになった。あるいは、カント的に言うならば、人間とは時間である、ということになる。人間から離れる時、具体的には、意識がぼんやりしているとき、臨死体験を経験するとき、時間と空間の感性は、揺らぎ、例えば、時間の制約から離れ、永遠を感じることになる。例えば、臨死体験を経験した木内鶴彦氏の『生き方は星空が教えてくれる』(サンマーク出版)は、時間についての、そのような本であり、ハーバード大のジルボル・トテイラーの『奇跡の脳』(新潮文庫)は、空間について述べられている。

もう一つは、カントの『純粋理性批判』における認識論は、そのまま、コンピューターのプログラムと同じという印象を受け、プログラムの本を読んでいる。プログラムの考え方から、カントを読むと良くわかるのだ。有史以来の哲学の問いは、そのままコンピューターサイエンスの発展と軌を一にしている。まだ、そこらへんの知識がかけているので、何ともいえず、直感にたよるしないが。カントにしても、コンピューターサイエンスの視点で考えて、理解していけばよいのかと。

こうした理解にたどり着いたのは、ロボマインド・プロジェクト(YouTube動画)のおかげである。

コンピュータと言えば、バックミンスターフラーも『宇宙船地球号』(ちくま学芸文庫)の最終章で、コンピュータによる課題解決に期待を寄せている。コンピューターの膨大な記憶量と高速再現料の能力で、世界社会全体にによる人類の経済勘定システムの再組織化と、もともとの富の全可能性の成就ということを言っている。フラーは「超物質」、メタフィジカのことを言っているが、これは上述の右脳(無意識)のことに通じる。

ジル・ドゥルーズは、カントの悟性の王国で威狂う世界について、超越論的経験論をうんぬんしている(ジャン=クレマルタン『ドゥルーズ/変奏♪』松籟社)。この超越論的経験の世界が、カントの感性論にかわる「新たな感性論」だと思うのであるが。9/4/23月


3. 片岡鶴太郎氏とドゥルーズ「反復の力」

最近(8/8/23火)、西研氏の本をいくつか読んでいる。今は『実存からの冒険』(ちくま学芸文庫)だが、フッサールの妥当、間主観性という箇所だ。よく分かる。
これを以前読んでいたら、分からなかったろう。それは 村上春樹の小説(『ねじ巻き鳥クロニクル』以降の『騎士団殺し』迄の長編小説)にしても同じだ。

何をこれまでやって来たのだろうと思うが、致し方ない。今の自分の理解力を受け入れ、そうであったかも知れないが、今、こうやって今なりの理解が得られて良かったじゃないか、と安堵するしかない。

「力」というものがあると過程したら、細胞が分岐するように、拡がりを増していく。水滴ならば周辺が拡散、飛散し、エントロピー第2法則のを影響を受けることになるが。第2法則については、シュレディンガーが『生命とは何か』(岩波文庫)で提唱してるが、そこの醍醐味は啄んだだけで、その理解は、福岡先生の『生物と無生物のあいだ』を含む、一連の動的平衡論の本で、理解を得た。

ここで「力」は、ドゥルーズの「卵」のように発現する(檜垣立哉『ドゥルーズ入門』)、あるいはエピファニー(顕現)する。これを「欲望」というのかも知れないが(西研『ヘーゲル自由と普遍性の哲学』)。
あるいは、この「力」は、西田幾多郎の「純粋経験」と言い換えても良いかも知れない(小坂国継『西田幾多郎の哲学』)。顕現という言葉は、西氏のニーチェについての言及だ。

下記の自分メモ「2.  意志とシナプス、発展の諸相か?」にも、「力」が、「混沌」から「意識の発展の旅」のようにい言わば「顕現」するような事を書いているな。じゃあ、反復していることになる(ジル・ドゥルーズ『差異と反復(上)』河出文庫の序論)。反復が祝祭であること、反復は行動すること、それは一回目の反復をn乗することだ、というのも分かりやすい。ドゥルーズは、これを「反復の力」と呼ぶが(上記序論の「反復と一般性ー行動の視点からする第一の区別」)、この「反復の力」は、ゆくゆく「特異性」「差異」という概念の諸相として現れて来るのだろうが、そこ迄の腹落ち理解は未だならずだ、致し方ないが。

この「反復」をもっと分かりやすく、「人生の習慣」(大江健三郎)のような形で、実践的に説明しているのが、片岡鶴太郎氏の『老いては「好き」にしたがえ!』 (幻冬舎新書)と『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる 』(SB新書)だ。

片岡氏は、ヨガにしても絵画にしても自身の声帯模写の出自の「守破離」の反復の重要性を強調され、反復することで、毎回新しい自分との出会いを「魂の高揚」と表現されている。この「魂の高揚」は、チクセントミハイの「フロー」(『フロー体験 喜びの現象学』)、西田幾多郎のいう「純粋経験」(『善の研究』の冒頭)と同じ心の状態を指すと考えている。

片岡氏の反復は、ドゥルーズ的には、「そのような外的行動としての反復は、より秘めやかなバイブレーションに、反復を活気づけている特異なものにおける内的でより深い反復に反響するだろう」(ジル・ドゥルーズ『差異と反復(上)』の序章、引用はしょる)。
8/9/23火


2.  意志とシナプス、発展の諸相か?

西田幾多郎は、「根源的統一力」という言葉を使うが、著者は「宇宙の統一力」と言い換えている(小坂国継『西田幾多郎の哲学』岩波新書)。この統一力は、物理学の世界観でも言い換える事が出来るような気もした。ヘーゲルの意識の旅(意識→自己意識→理性)も同じで、普遍性の欲求が、意識の世界と同じように物理的な世界にもある。
但し、私の知見不足で、これからの読書の中で俯瞰して、何だ、みな言っていたのかと思う日が来るだろうが。

これはニーチェの「力への意志」とも同期化できるのじゃないのか。力の意志とは、人間も含めて、どんな生き物でも、抵抗や困難を克服して、自分を今までよりおおきくしてよろこぶ、そういう力の原理とある(『知識ゼロからのニーチェ入門』p40、竹田青嗣、西研)。

ニーチェによれば、世界に真理があるのではなく、意志がある。生への意志とあるが、脳細胞のシナプスの縦横無尽の炸裂と同じような気がする。

ただ炸裂、生はそれぞれの解釈と言われても、それだと価値観の相対主義に陥るという議論もある。が、細胞だと、あなたの細胞も私の細胞も配列は違うとしても、同じタンパク質だし。

生の相対主義は、生物学、物理学からのアプローチから見ると、良いのじゃないのか。かと言って、浅薄な理解力で解像度は悪いが、今の段階に満足し、足場を築くしかないが。8.7.23土


1.  複雑な五文型の理解がまだまだ

英語は、勉強すべき若い時にやらなかったので、上手く読めない。外国語を理解するのは、柄谷行人氏の『探求1』の冒頭にあったように、阿吽の呼吸ができない、コミュケーションが成り立たない異人の言語を学ぶ、共有する、共感することかも知れない。

ただ、澤井康佑氏の『一生モノ英文法COMPLETE』(ベレ出版)を再読しながら、5文型は、単語を結びつけた単純な5文型から、前置詞や、thatなどの従位接続詞、さらにto不定詞・動名詞などの準動詞句が結合した複雑な5文型となり、文章が長くなる。Plain Englishから複雑で長い構文になる。加えて、目的語やらが名詞じゃなくて、名詞節や準動詞句なので、即座に見抜けなくなる。さらに、準動詞句の中に準動詞句が入れ子状に入り込む。卑近な例で言えば、下記の通り、

The purpose of business is  changing over to reflect our disire for companies to contribute to the world.

George Serafeim, Purpose and Profit: How Business Can Lift Up the World 

to reflectというto不定詞の準動詞句(名詞句)の中に、to contributeがto不定詞句(形容詞句)が入れ子状に入り込んでいる。上記例は簡単だが、これが長文になったりすると、分解しないでは理解しづらくなる。8.7.23土


No.1 近位項と遠位項と、両義性としての魔性、意識の高次化の旅(1〜4)