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No.1 近位項と遠位項と、両義性としての魔性、意識の高次化の旅(1〜4)

1 両義性としての「魔性」

🚶 栗本慎一郎氏の『経済人類学』(東洋経済新報社)の後半に、ユングの錬金術やら、魔性についての議論がある。この魔性は柄谷行人氏の『力と交換様式』(岩波書店)の「物神性」も連想させる。あるいは、行き過ぎた意識に対する無意識の補償作用も(ストー『エッセンシャル・ユング』創元社)「第5章タイプ論とこころの自己調整」)。

🙇 栗本慎一郎氏は、魔性を両義性と言い換えている。柄谷氏の「物神性」は、切迫したものとして到来する。商品は貨幣を恋い慕う。しかし、「誠の恋はままならぬ」ように(マルクス『資本論』価値形態論)、だから意識には制御できない無意識の力なのか。

2 近位項と遠位項の「層別の理論」

😅 『クラウン総合英語第3版』(三省堂)は、『英文法一生モノCOMPLETE』を補完する参考書として読み始めた。

英語という言葉には、単語があり、その単語(名詞)と単語(動詞)が結びつくと、SV(第1文型)という一文、つまり文章になる。更に、このSV(第1文型)に前置詞と名詞という副詞句を加えると、このSVは長くなる。更に、副詞句の名詞を動名詞にすると、文章は長くなり、プルーストの小説『失われた時を求めて』の文章のように、文章の句読点がなかなか終わらない。

🐔 文章を長くするのは、that、whichなどの従位接続詞と、to不定詞・動名詞・分詞構文。仮に、単語を原子要素(近位項)とすると、この要素同士が結びつくと、文章が長くなり、複雑化し、文脈をつくる。ここに物語・意味が生まれる(遠位項)

この近位項と遠位項の層別、相互作用の考え方は、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』によるものである。読むすすめのこの本は難しく動画解説を見たり、栗本慎一郎氏の『意味と生命』(青土社)にも解説がある。栗本氏は、そこで下位の層の近位と上位の層の遠位を「層の理論」による相互関係の複層性として捉える(「第二章身体と知」p106)。

3 両義性としての「魔性」②

👾 魔性は、両義性があるという事で、栗本慎一郎氏は、ユングのトリックスターを例に上げていた。ユングの『元型論』にトリックスターが取り上げられているが、今いち腹落ちしない。ただメアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』(ちくま学芸文庫)が分かりやすい。ダグラスの本は、我々のリアルな人格的世界に対して、神話的世界があると。

この神話的世界が、つまり、神話の形として我々の心の中にある世界が、リアルの我らの現実的世界としての人格的世界に影響を及ぼす。どういうことか?

4 西田幾多郎の「純粋経験」と精神現象学

🙇 中断して、ヘーゲルと解説(長谷川宏『新しいヘーゲル』)を読む。ヘーゲルの『精神現象学』は、意識の物語だ。この事は読み進める西研の『ヘーゲル 自由と普遍性の哲学』で学んでいる。この意識、あるいは意識を自覚する自己意識が、理性やら絶対精神へと昇華していく意識の旅が『精神現象学』のテーマだとするならば、この自己意識が、自己となる寸前の主客未分の意識の状態が、西田幾多郎の言う「純粋経験」だろう。

改めて、純粋経験は、認識へと進み、最後は知的直観なりに進む。経験も発展していく。ヘーゲルの精神も自己意識から進み、否定が入り、絶対精神へと進展していく、精神の発展の物語だ。チクセントミハイの「フロー体験」も挑戦と能力の向上を通じて、フローは複雑化し、高度化していく。サルトルの存在についても、即自存在が対自存在、対他存在へと複雑化していく。

このように意識の発展という視点に立てば、ヘーゲルも西田幾多郎も、ポイント理解を通じた読み方をすることができる。ユングについても、無意識の意識化といったように、意識の高次化を目指す。ユングはしかし意識ではなく自己という概念を使うがする。