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気違いになるのに忙しすぎた人~父について(6)

前回の続き。②の問題、つまり今書いている文章が「なんか特殊ぶってる」だけになってはいないか、ということについて。

おれの弟は、不登校の生徒のケアなどをする仕事に就いている。彼によると、うちのような家庭は、現在であれば確実に「保護観察下」みたいになるのだそうだ。場合によっては子どもが親と引き離されて施設に行くとか。おおそうかー、と(なぜか)誇らしくなる。さすがにうちの変さはふつうレベルではなく、オーソライズされるくらいのものだったんだ。

あらゆる人がそうであるように、自分の家庭がどのくらい異常だったかということはわからない。こればっかりは比較のしようがないから。生きづらさを感じていたか? これもよくわからない。当時は「生きづらい」という言葉がなかった。そして、うちの場合は決定的な出来事――離婚とか酒で死ぬとか――はなかった。であるのにあんまり親のアルコールの問題を深刻にとらえるのは自分を欺いているんじゃないか、という思いは常に心のどこかにある。この文章を書いているときもそうだ。

しかし一方で、「ふつうの家庭」観を押し付けてこようとする人間がいたりすると、それに対するイライラは、これはこれでものすごい。

なんでも親のせいにするのはよくない
いろいろあっても親は感謝すべき存在。君も成熟すればわかる。
すべての家庭は程度の差はあれ狂っているもの

あー、書いてて超ハラがたってきたぞ!! いるんだこういうこと言う奴!!!

しかしだな。

おれのもつ人間的な欠陥はかなりの部分が家庭環境によるものであり、


父は感謝すべき存在ではない。死んだ後になっても感謝の念がわかないんだから、おれは一生わからない。


「程度の差」とか言ってんじゃねえバカ。お前の家庭はぜったい狂ってないし、おれの家庭はめちゃくちゃ狂ってた。

と、すぐにこうなってしまう、というのはある。

困ったものだ。

やはりどっかで「人とは違う」という意識があるのかな。だからさっきのような弟の話をきくと、それが肯定されたように思うのかしら。

しかし、なんかそれはダセエなあ。不毛だよなあ。

そうであるならば、この文章だって「狂ってる家庭(に生まれたかわいそうなわたし)とそうじゃない家庭」という分断を書き連ねているにすぎないということになる。別に何かの目的をもって書いているわけではないけど、できれば「こういう家庭もあるのですよ」ということを伝えたいという、橋渡しをしたいという気持ちはある。

特殊ぶるのはなるだけやめたいが、やはり「家庭とは」という確固たるものがずっとなかったとは言えるように思う。だからそういうものを押し付けられようとするときの拒絶が凄まじいものになるということなのだろう。もちろんその「確固たるもの」だって人によってそれぞれ異なるはずだ。ただそれが「あるかないか」というのは大きな違いで、おれの場合はなかったように思うのだ。

確固たるものが育たない家庭というのはどういうものか、ということをエピソードと共に次回から振り返ってみようと思う。

小学校の頃、「みんなの兄貴分だと思ってください。家庭のことでもなんでも悩みがあったら相談にくるように!!」とか言う若い教師(いますよねこういう人)が苦手だった。おれの悩みをほんとうに打ち明けたらおまえ潰れるよ、と思っていた。

そういう家庭について、書いていく。

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