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気違いになるのに忙しすぎた人~父について(7)

平成六年六月、五十一歳の時、ついに連続飲酒に入った。……酒を喉に流し込むこと、眠ることの他には何もしなくなった。カーテンを閉めた部屋で手に酒瓶を握り、昼夜の区別もなく、ソファーに凭れて時を過ごすのである。学校に行くのも忘れた。ご飯を食べるのも忘れた。人間であることも忘れた。大小便も垂れ流しである。酒を抱いた人形になってしまった。(尾形牛馬 小説「酒と私(私の酒歴)」より)

父が書いて半分自費出版みたいな形で出した短編。小説とはいえほぼ事実。

家に帰ったらこういう人がいる、というのが依存症の家庭だ。

平成六年、1994年。おれが高3のときである。こういう人から、おまえは低能だ、うちの家系におまえのようなバカはいない、などと言われる毎日を過ごしていた。

思い出していると、頭の中にレニー・クラヴィッツの「自由への疾走」(Are you gonna go my way)が流れてくる。そうです。あのギターリフ。アイ・ワズ・ボーン ロン・アゴー!! あれ。あれを大音量でかけておれはある種の悪魔祓いをしていた。居間にいる悪魔と自分の中にいる悪魔。ははは。

父親の飲酒はこれで底をうったわけではなく、更にエスカレートするのだが、ここではもう少し昔を振り返ってみようと思う。

これから書くいろんな話は、すべて「家に帰ってみると」という書き出しで始めることができる。家に帰ってみると、いろんなことが起こっているうちだった。

家に帰ってみると、父親がソファに横たわっていた。様子が明らかにおかしい。意識があるのかないのか。顔はチョコレート色、いびきではない妙な、大きな音をたてている。吐瀉物をつまらせてるらしい。言葉を話し始めたばかりの幼い弟は怖がっている。「おとうさんがぐちゃっとなった」。謎のオブジェのようになった父はしばらくすると救急車で運ばれていった。母と弟が付き添い、おれはお隣さんに預けられた。

江利チエミと同じたい、と母はこのときのことを振り返るたびに言っていた。江利チエミが死んだときと同じ。

こういうこともあって長らくおれは、江利チエミに関しては「吐瀉物を詰まらせて亡くなった人」ということしか知らなかった。どのくらい素晴らしい歌手か、というのを知ったのはそれから三十年くらい過ぎてからだった。

預けられたお隣さんの家でなんだか遠足的な気持ちで「宇宙刑事シャイダー」を観た記憶がある。ということは7歳くらいだったことになる。

今のおれの長女よりも年齢が下だ、と気づく。

父親である今のおれはどうか。まだとりあえずは大丈夫だ、ぐちゃっとなることもなく父親をやれている。

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