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気違いになるのに忙しすぎた人~父について(5)
いろいろと書いてきたが、書き続けるうちに悩みも出てくる。
①シリアスすぎる。もちまえのユーモアがまったく発揮されていない。
②自己憐憫的すぎやしないか。「なんか特殊ぶってる」だけになってはいないか。
ということで、しばらく趣向を変えてこの二点について考えてみる。まずは①。
こういう話題にはユーモアが必要だ、という義務感みたいなものが自分にはある。というか、あった。依存症の生活を扱った本や漫画の内容説明は大概こうだ。「……な依存症生活を『ユーモラスに描く』」おれの文章はまるでシリアスで、いろんな方向へ向けてエラそうに見える。これは自分が未成熟なだけかもしれない。
と思いながらあることに気づいた。
依存症生活をユーモラスに描いている人たち、ありゃ大体「当人」たちだ。
皆さんも、いくつか作品を思い浮かべてみればいいと思います。大体は依存症患者自身によるものでしょう。
非常にヤな感じに聞こえると思うが「そりゃユーモラスになれますよね、自分のことなんだから」。もちろんそういう人を責めるつもりはない。依存症が意志の問題ではなく病気だということも知っています。患者としての地獄もあったでしょう。気の毒だと思います。ユーモラスであることも否定はしません。実際、おれ自身読者としてそれらの作品を楽しんだことも多い。
ただ、おれはこのことに関してユーモラスであることは無理だな、と思う。またそうでなくともいいんだな、とも思う。
例外もある。菊池真理子『酔うと化け物になる父がつらい』、あれは作者の目を通してアルコール依存症の父を客観的に、面白く、そして愛情深く描いている。読んでる最中は気づかなかったが、これはすごいことだ。
ただ、多くの場合家族は、依存症患者に対しそこまでの芸術的ディタッチメントはできない。
依存症患者の家族が書いたものを母親は一時期よく読んでいた。そのうちの一冊にこんなタイトルがあった。
『修羅の日めくり』
ものすごいフレーズだ。パワーワードとかいうレベルを超えてる。
しかし、依存症患者との生活はそうなのだ。修羅の日めくり。ユーモアは、目指さなくていいか。
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