見出し画像

気違いになるのに忙しすぎた人~父について(8)

家に帰ってみると、そこらじゅう血だらけだったことがある。 割腹、というと聞こえがよいが(よくないか)、包丁で腹を刺して自殺を図ったのだ。もちろん酩酊状態で。

家に帰ってみるといろんなことが起こる。

 この自殺未遂は、おれが中学生だったか、高校生だったか。さすがに細かいところは記憶から消えている。ぬらぬらとしている包丁をなんとなく覚えている。もうこの時期は「ふーん」てなもんで、ショックは受けるけれど、あまり何も感じなくなっている。まだ物心がついていない弟は「おとうさんは机の角におなかをぶつけて入院した」と教えられていたらしい。何年も経った後、弟は聡明にも「机の角にぶつけても血は出ないのではないか」と気づき、母親に尋ねて真相を知ることになる。

 遺書があったな。母親にあてたすげえ感傷的でクソつまんない遺書。

 前にも書いたが、父親はアマチュア小説家だった。大学時代から執筆していたらしい。酒でメチャクチャな生活をしながらも、断続的ではあるが創作は行っていた。酒をやめた後はずっと書き続けで、半分自費出版みたいな本を一冊(ここで引用しているもの)出した。その後、別の作品で九州芸術祭文学賞をとり『文學界』に掲載された。 もちろん自殺未遂はそういった落ち着いた生活がやってくるずっと前の話だ。この遺書もそうだが、なんぞってえと文章を書きたがる人であった。 

この頃「ダザイ・オガタ事件」というのもあった。 

ある日、帰宅すると至る所に掲示物というか、貼り紙がある。父の「作品」が。たわごとのような詩。これも酔って衝動的にやったことだ。署名はすべて「ダザイ・オガタ」となっていた。小説に関しては古典から最新の文学賞受賞作までオールラウンドに読む人だったが、あの時代の人(昭和17年生まれ)というのはそういうものなのか、おそらくは太宰が一番好きだったんだろうと思う。それにしてもなんで名字を並べたんだ。 

いくつかの詩はいまだに暗唱できる。

私は

誰にも知られずに狂ひ 

誰にも知られずに

治っていた 

ダザイ・オガタ 

なんで1ヵ所旧仮名遣いなんだよ、とか、治ってんのか、とかいうツッコミすら浮かばない。これがうちの家庭。カート・ヴォネガットばりに「そういうものだ」と受け流していた。こういう家庭の困ったところは、みなもう疲れちゃって、出来事を放置してしまうということだ。作品が撤去されることはない。おれは数か月、壁の「私は誰にも知られずに……」を眺めながら食事をした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?