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気違いになるのに忙しすぎた人~父について(11)

葬儀の前の日に喪主あいさつを読む練習をする。ネットには3分以内で、とある。喋る商売なので、わりかしこういうのはきっちり時間どおりに仕上げたい。まあ合格だろうというレベルにして当日を迎えた。

葬儀の日。あいさつを述べる。父親に最後言えなかったこと、という話から始めた。 もう長くないとわかってから、父親に言おうとしていたけれど言えなかったことがあります。それは「酒を飲まんまま人生を終えようとしているね、よかったね」という言葉。 

この言葉を発した途端に、心が完全に崩れ落ちた。あのときの泣き方は慟哭、と言っていいと思う。練習のときはなんでもなかったのに。

心の中で閉めておいた扉が、久々に、二十五年ぶりくらいに開いた感触だった。

父親は依存症の自助グループにも積極的に参加していたし、実家での話もそういったものが多かった。父が酒をやめた後も、おれにとって依存症の話は常に身近だった。ただ、やはり既におれにとって依存症は人からきく「現象」であり、客体化して捉えるものになっていた。「酒を飲まないまま人生を……」という言葉、それが自分を再び現象の中へ、感じる主体へと引きずりこんだんだと思う。あのときは参った。ちょっとタイム。しばらく引っ込んで一人で泣いてきます、というレベルだった。

あの感情は父へのものではない、ように思う。父が酒を飲んでいた頃の、おれが思春期だった頃の、自分に対するものだった。書いていて、どういう理路なのかは自分でもよくわからない。しかしあのとき、自分が自分に、声ではない声で語りかけた感じははっきり覚えている。無理矢理に言葉にしようとするとこうなる。あのときはおまえ結構あぶなかったな、おれはそれをよく知っているぞ。

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