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【読書メモ】暇と退屈の倫理学(國分功一郎)

●購読した理由
・週に一度は必ず書店に行くのだが、ここ1年くらい行くたびに関心を惹かれていたから。
・東大生京大生の1位本であった『思考の整理学』はお気に入り本で、似た帯が付けられていたので。
・特に仕事において、時間を意識するがあまり逆説的に時間に余裕を持てなくなっている感覚があったので、その解消につながるかと思って。

●心に残った文章(〜疎外論)
・人間が豊かさを素直に喜べないのはなぜだろうか?
・余裕を使って何をしているのだろうか?
・いったいどれだけの人が自分の好きなことを断定できるだろうか?
・「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに「楽しいもの」を提供する
・何故暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。
・人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する
・生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そういう時は人は「打ち込む」こと「没頭する」ことを渇望する
・欲望の対象を欲望の原因と取り違えている、という事実に思い至りたくないために、気晴らしには熱中することが必要だ
・自分を行動に駆り立ててくれる動機がないこと、それは最も苦しいのだ。何をしていいかわからない退屈の苦しみから逃れるためなら、外から与えられる負荷や苦しみなどモノの数ではない。
・日常的な不幸には飢餓や貧困などの非日常的不幸とは異なる独特の耐え難さがある。原因がわからない、ということである。
・人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。だから今日を昨日から区別する事件を求める。
・慣れ親しんだ生活様式を放棄することは大変な苦労を強いられる出来事である→やむを得ず変わる
・自分の肉体的、心理的な能力を存分に発揮することが強い充実感をもたらす⇄退屈
・暇があるとは余裕があるということだ
・暇の中にいる人間が必ずしも退屈するわけではない
・レジャー産業は人々の欲求や要望に応えるものではない。人々の欲望そのものを作り出す
・現代社会の生産過程は、生産によって充足されるべき欲望を作り出す
・必要なものが必要な分しかない状態はリスクが極めて大きい状態である。何かのアクシデントで必要なものが損壊してしまえば、すぐに必要のラインを下回ってしまう。
・浪費(対象には手触り感がある)はどこかで限界に達する。消費には限界がない。対象がものではないから。消費は次第に過激に過剰になっていく。しかもそうなればなるほど満足の欠如が強く感じられる。
・人間の力比べは所詮どんぐりの背比べの域を出ない。

●感想
 社会が豊かになることで生まれる余白時間、暇。「この時間を充てていることが本当に自分の真の”好きなこと”なのか?」再考させられる本だった。特に子供が生まれてからは”どんな時間の過ごし方をすれば充実感、満足感が高まるか?”を日々追求しているため、好きなことなのかはたまた「既成の楽しみ」なのかを考え直す良いきっかけになった。
 スキマ時間を振り返った時、SNSを無意識に開いている時間が結構ある。自分の好きを見つけようとの目的もあるのだが(お洒落な服装、とか美味しそうなラーメンとか)大半は”なんとなく”見ていて、まさにこの行動が産業が生み出す楽しさに踊らされているのでは、と認識した。
 スキマ時間を埋めるものやことは世の中に溢れかえっている。だからこそ、真の”好きなこと””チャレンジしたいこと”に強い意志と目的を持って取り組んでいこうと決心につながった。
 明確にこれだと言えるような熱中できるものがあるときとない時の感覚的な違いを的確な表現で捉えており、ふに落ちる部分があった。ない時には強制的に続けざるを得ない対象を無意識に求めていたりする気がした(学生時代〜社会人いずれも)。ただ、ある時には外部からの強制力よりも内面からのモチベーションに身を任せたくなる感じがとてもわかる。
 ミニマリストに近い感性が自分にあるが、必要最低限をMAXとせず+αのバッファを含めて必要最低限としておくことが、本当に自分が求めるミニマリストになると思った。
 浪費と消費の対象が異なることを認識できたし、消費はすればするほど満足度欠如感が出ることは体感的に思っていたことだったのでより理解が深まった。特に情報が大量にある現代だからこそ、情報消費の依存に陥らないように注意しなければならない。

#暇と退屈  
#豊かさ
#余裕

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