私の今


私の現在は名古屋のフリーターです


昨年九州から名古屋にやって来ました。
今年の冬に帰ります。


はい。帰ります。帰省ではなく実家に住みます。


名古屋に来た理由

簡単に言えば、違う世界が見たかった。です

私は高校を卒業し、パートでの就職、そして元々不安定だった精神に追い打ちをかけるような職場環境で4ヶ月で退職、3年間ニート後社会復帰を目指すべく車の免許を取りようやくアルバイトで地元の大型商業施設の直営店へ入り込み

毎日早朝に起き、その日の退勤時間10分前に延長を申し出され、御局様の機嫌に怯え、帰宅し、30分もすれば母を迎えに車を走らせ、母の退勤時間から30分1時間は当たり前に待機、そして買い出しへと…

3年間ニートをした私にはありえないほどのストレスとほんの少しのやり甲斐

そんな中今まで父からの暴力で一度も入院することがなかった母が原因不明の難病で手術を受け、私の中でこのままだと一生どこにも行けないという窮屈さを感じました。

今でさえ遊びに行くのに母親の送り迎えの時間を計算して、逆算して、時間を気にして遊んでるのに。私の自由な時間は?私の楽しい20代は?

自分のことばかり考えていました。

20歳を過ぎても言われる何時に帰るの?誰とどこに行くの?にうんざりし、母の送り迎えの時には今終わったよー?どこにいるのー?に苛立ち

父の不安定な仕事に大黒柱の役目も全うしてないくせにと蔑み、それでも酒を飲み騒ぐ姿に早く死ねばいいのにと泣いていました。


けど一度だけ、たった1年という短い期間でも思ったんです。居場所はいくらでも変えられる。


今は大変かもしれない。
きっと母の病状は歳を取れば更に悪化する。
父の面倒も、女だから見るのが当たり前の環境でも、仕事もこの地域も家族も全て私が居なくても回り続けます。


違う環境もある、それを知れた。

それだけでいい。


母と病気と父


私が産まれた時、母は40。父は32でした。
母は図太い神経を持つと同時に男運も悪くヒステリック。父は繊細でありながらも父自身の家庭環境や時代の波に呑まれ、80年代を地で生きていました。

九州では珍しくない、ヤのつくお仕事だったんです。

父が学生の時はファンクラブがあるほど人気で、今も後輩が家に来るほど男女問わず人気だったらしい

父も母も初めてではない結婚生活、
実際籍を入れたのは私が高校生の時でした。

父はそういう過去もあり、母の性格もあり、とても暴力的で事ある毎、そして何かのイベントの際には必ず母を殴り、蹴り、そんなことは産まれる前からの日常でした

それでも母は入院なんてしなかった。

包帯を巻かれ、痣まみれになっても、その日の夜には謝罪も何も無く、何も無かったかのように台所に立って包帯を取り夕食を作っていた。


今思えばどちらも頭悪いですよね。
けど夫婦間って分からないことだらけなんですよね


そんな母は、父の性格と不安定な職にストレスをかかえ、50代後半から社会復帰

今は誰よりもパートのおばちゃんとして働いています。


母が還暦を迎えた頃、異変があった

足が痛い。

働きすぎだろう。湿布を貼って、よく休んで。

そんな事をしても悪化していくばかり。

次第に私は苛立っていた。
原因不明の痛みに騒ぎ、気付けば1歩も歩くことは出来ずスーパーのど真ん中で呻く母

ちょっと前まではバスで移動して、どこまででも歩けていたのに。

きっとあの時の苛立ちは半分不安だった。

どれだけ痛み止めを飲んでも効かず、セカンドオピニオンで大きい病院に行った


大腿骨が折れている。


原因は不明、骨密度も問題なく、疲労骨折等の症状ではない。


正直不安でいっぱいだった。


目の前であれだけ腰や足を蹴られている母。一度も折ったことなんてなかった。母が歳をとった。そう思ったのと同時に死も近付いていると思った。


それでも母は仕事を辞めなかった。
私は病院、職場、買い物、全てにおいて使われた。家にいる子供は私だけじゃないのに


手術を受け、リハビリを受け、そんな中で私は私が知る環境が窮屈に思えた


だから母が職場復帰し、父が家を買ったと同時に急いで九州を出た。


そして思った。
死ぬまでの面倒は見たい
祖父母、親戚の死もいまだに癒えていない私がそう思った。

これ以上の後悔はしたくない。
私の人生は長いから、ほんの10年20年、親との時間を過ごしても良い。

私が居なくても回る家族かもしれないけれど私の心のために。

私が帰る理由のひとつ

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