最近の政治談議から感じるもやもや

 最近の私がTwitterやあちこちで目にする政治談議について思うところを書きます。別にこの人のこの発言がとかって意図はありません。私にそういう意図があれば直接言います。読んで襟を正したくなった人がもしいたら勝手に正してください。それは素晴らしいことなので。

はじめに

 最近の政治の話題といったら異次元の物価高、安保三文書改定に伴う反撃能力(敵基地攻撃能力)保有とそれに伴う増税、あとは異様な死者数を記録するコロナ対策あたりかと思います。それ以前、10月頃までは統一協会問題でもちきりでしたね。今日書くのは少し遅れた感もありますが統一協会問題の話です。最終的にはもう少し一般的な話を述べて、私の今年の抱負の説明に着地しようと思います。私のノートだしね、私の話も書こうということで。

 統一協会問題に関する政治談議で、私は次のような発言を目にしました。

  • 「どの議員も濃淡はあれ統一協会と関係している」

  • 「(反社について潔癖な芸能界と比較して)政治家なんてやつらは全部だめ」

 この発言に対する私の感想としては、そう言いたくもなるよな、という思いがあります。統一協会と自民党の癒着の程度はそのくらいひどかったし、事後対応はお世辞にもよいとは言えないものでした。
 一方で、これらの発言をきくと私は発言に対してもやもやした思いを抱きました。書いていて気づきましたが、苛立ちと表してよい心情だと思います。前掲の主張のどこに私が引っかかっていたのかを明らかにするのがこのノートの主たる内容の一つです。そして、私が引っかかっていた部分を明らかにすることを通じて私が目下のところ大事にしたいと思っているものも見えてくるはずで、それを説明するのがこのノートの主たる内容の二つ目です。

統一協会と政治の癒着について

 議論の前提として必須なので統一協会と政治の癒着について改めて整理しておきたいと思います。まず癒着が起こるためには、利害や政治思想における一致が必要です。

利害の一致

 統一協会と、癒着する政治家の間にはまず強固な利害の一致があります。統一協会側は構成員の獲得に際して政治家の権威を借りることができます。実際に安倍元首相は統一協会にビデオメッセージを送っていました。あの政治家先生が太鼓判を押すなら、と思って入信した構成員もいたことでしょう。政治家の側はその過程で統一協会の構成員に顔を売ることができるばかりでなく、政治献金を得たり、何より重要なことに選挙スタッフを得たり、もう直接に票を回してもらったりできます。
 選挙スタッフは普通に大変ですし、ノウハウが蓄積していく類のものです。しかも賃金を出して選挙スタッフを雇うのは、ものによりますが原則として公職選挙法違反です。そういう状況なので手慣れた選挙スタッフはどの陣営でもかなりありがたいと言えると思います。
 ついでに言うと統一協会の選挙工作は評判度外視で後ろ暗いことも平気でやってくれます。他党について完全に虚偽の謀略ビラをまいたりとか(赤旗記事)。選挙スタッフだからってこんなことを引き受ける人はそうそういないので(もちろん私も断ります)、事実に基づく言論も公正な選挙もどうでもいいから勝ちたい、負けさせたい、という勢力には統一協会の選挙スタッフというのは代えがたい人材です。

政治思想の一致

 統一協会と、癒着した政治家との間には政治思想の一致もあります。いくら利害が一致したとて、政治思想が真逆で協力できるということはまあ少ないでしょう。
 一致する政治思想は伝統的家族観だとかいろいろあるようですが、このノートにおいて扱いたいのは「反共」です。統一協会関係の政治団体である勝共連合は "「共」産主義に「勝」つ" と書いて勝共連合です。統一協会はそのくらい一般にいう「反共」という政治思想を重視しています。
 統一協会と、癒着した政治家との間での政治思想の一致で最も大事なところ、かつ広がりを持っているところは「反共」の思想、つまり共産主義(と呼ぶことにしたもの)に敵対するという共通認識だと私は思っています。
 綱領(政党の最も大局的・根本的な方針文書)で「反共」を掲げている自民党と統一協会の癒着が最も強いのもむべなるかなといったところでしょう。

統一協会と政治の癒着の状況

 前述のように、統一協会と政治家たちの利害や政治思想は一致しやすいものになっています。なにせ、人手や金がほしく「共産主義」に友好的でない政治家というだけなら、かなり広い層と手を取り合えるはずです。このあたりは統一協会の政治に食い込む戦略が巧みだというほかないですね。

 実際に状況として癒着はどうなっているのか。たとえばという感じですが、こういう記事にまとまっていました。自民党、維新の会、国民民主、立憲民主の議員の名前が挙がっています。各党の規模が違うので単純比較はしかねるでしょうが、やはり自民党と統一協会との癒着の強さは目を見張るものがあります。なお、自民党に関しては調査が自己申告でゆるゆるだったり(赤旗記事)、比較的繋がりの薄い議員数十人は氏名を公表してもいなかったり(読売記事)と他とは別格の癒着ぶりを感じさせます。

 れいわ、社民党、共産党などの左翼色強めの少数政党の名前が全く挙がらないのはなるほどという感じですね。立憲民主もメディアの扱いや選挙時の陣営図では左よりなので挙がらないかというと、そんなこともなかったようです。大きい政党だし案外右から左までいろんな議員を抱えた政党なので、そんなものでしょう。とはいえやはり立憲は規模のわりに名前の挙がる議員が少ないですね。

本題:どこが気に入らないのか

 ようやく本題です。はじめに示したような、すべての議員を一緒くたに非難する論調に対して私が思うところを述べていきます。私が感じる苛立ちの理由は大別して三つだと思います。

  • 事実に反していること

  • 言っても身もふたもないこと

  • 言い方が悪いから統一協会問題が孕んでいる民主主義の根幹にかかわる一大事ぶりを覆い隠してしまうこと

事実に反した主張である

 現に真っ白な国会議員はいます。統一協会にかかわった議員として名前が挙がったのは大規模政党である立憲民主党と、与党系勢力である自民党、国民民主、維新の会からです。それ以外の政党については今のところ挙がっていない。
 さらに言えば、日本共産党からは名前の挙がりようがありません。統一協会は日本においては日本共産党を攻撃することを政治的な任務としていて、反共すなわち共産党と敵対することを軸に政治家と癒着するんだから日本共産党とは癒着のしようがないわけです。
 以上のように「どの議員もある程度は統一協会とかかわっている」というのはまず事実に反しています。日本共産党の支持者としての思いをついでに言っておくと、統一協会と癒着するどころか統一協会からデマ攻撃などの妨害を受けながら選挙や被害者支援を行ってきた日本共産党の議員をよくひとくくりにできたな、という怒りが率直に言ってあります。

身もふたもない主張である

 次に「どの議員も統一協会と関係をもっている」という事実に反した前提に立ったとて、身もふたもないということです。事実に則して「完全に潔白の議員もいる」「自民党が圧倒的に黒すぎる」「反共思想がつけこむ隙になる」という評価をしていればまだ先の展望もあろうというものですが、雑に全部だめと言っては建設的な提案が何もできません。
 もちろん事実に即した検討をしたうえでこの局面ではどうしようもないと評価するほかないということも論理的にはありますが、今回は違うわけです。自民党が圧倒的に黒であることを考えれば自民党以外を伸ばすことが第一の善後策になるし、統一協会に少しでもかかわっていることが論外だというなら共産党やれいわや社民や参政党あたりを伸ばすという選択肢も論理的になくはない。特に共産党は、共産主義を自称するのをやめない限りこれまでもこれからも統一協会と癒着のしようがないでしょう。国民民主も名前は挙がっていますが小さな党なので監視すればしきれるでしょう。そもそも統一協会と政治家の癒着の鍵は反共なんだから、政治家が脈絡なく「キョウサントウガー」と言い出したら眉に唾をつけておこう、とも考えられます。立憲民主党にも統一協会と関係のある議員はいましたが、立憲民主党の打越さくら議員の対談などを見ていると、自民党よりは統一協会問題に関して期待がもてると判断できます。
 前向きの善後策はいろいろ考えられるのに、事実に反する主張をして勝手に希望をなくすようなことを振りまくのは看過しがたいと私は思います。
 統一協会問題に加えて経済や外交などの政治スタンスも考え合わせると選択肢がなくなるというのは尤もらしいというか、普通はそうなるだろうと思いますが、それはまた別の話です。困難を分割して個別の問題でどこに比較的大きな希望があるのかをまず見据えないと、すべての条件を加味して主権者としてどんな行動をとるかという複雑な問題に対する答えも出しようがありません。

公正な選挙が害されていたことを見えなくする主張である

 統一協会問題は日本で行われてきた選挙の公正性を揺るがすような問題を含んでいると私は思います。選挙が公正に行われるという前提でいられるのは、どの陣営も評判を気にしなければ勝てないからです。スポーツであれば評判を考慮せずとも、ルールを真摯に守って初めて競技の面白さが成立することに立脚して、ゲームが公正に行われるという前提に立てます。選挙とか政治とかは面白いでやってないので、評判が勝敗にかかわるという一点で公正さが担保されています。
 その状況で統一協会のように自分の評判を全く気にせずに他党に関する虚偽の中傷怪文書をまける勢力がいるとなれば公正な選挙という前提が崩壊します。そういう点から、統一協会と政治の癒着はスキャンダルというだけでは済まない深刻な問題だと私は思っています。しかし「どの議員もやっている」では、明らかに日本共産党不利に偏った、統一協会込みの選挙の不公正性が覆い隠されてしまいます。
 統一協会がなければ共産党が勝っていたとかしょうもないことが言いたいわけではありません。そもそも共産党が訴求力で負けているからデマをひっくり返すだけの大勢を味方につけられないんだろうと私は思っています。問題は、建前上くらいは公正であるはずの選挙が公正でなかったこととその原因勢力が両方とも明らかになったのに、それを覆い隠す言論を許していいのか、ということです。同じ自民党勝利でも、公正な選挙での勝利と不公正な選挙での勝利では日本の民主主義の行く末を考える時に意味合いが変わってくるはずです。

問題の主張の特徴は雑であること

 統一協会問題に関する雑な主張に対して僕がどういう思いを抱いているかはここまでで詳述しました。すべての議員がダメだとする主張の特徴は、とにかく雑であることです。統一協会問題について勝共連合という用語が出てくるまで調べていれば、癒着の軸が反共であること、したがって日本共産党の議員とは癒着していないであろうことはすぐに見えるはずです。
 あるいは、実際に癒着していたのがどこの議員かを調べさえすれば議員は全員ダメなんて結論に至ることはありません。
 統一協会との癒着の何がダメなのかを立ち止まって考えれば、片手の指を使い終わるより前には公正な選挙が損なわれることが出てくるはずで、そこから議員全員をダメと評価するだけではいけないと思えるかもしれない。
 いっくらでも立ち止まれるところがあったのにアクセル全開で行われていたのが「議員は全部だめ」という雑な主張でした。

雑な主張の背景

 この種の雑な主張がされる背景をもう少し探りたいと思います。統一協会問題に限らず、私は政治の問題でこの種の雑さをよく観測するように思います。具体的な実態はどうなっているのか、自分はどこに関心があって何を大事にしたいのか、そういうことを立ち止まって問いかければ防げたはずの雑さというのは、統一協会問題以外でもあちこちで目にします。

 事実を調べるのは面倒だから、というのは確かにそうです。忙しい労働者に政治のことで立ち止まって考える時間はないと言われれば私も理解はします。
 加えて、雑で曖昧な主張は目の前の相手の思っていることとどこかしらで重なる可能性が高いです。雑なボールを投げればどこかにはひっかかるかも、と。だからコミュニケーションの手法として、目の前の相手の共感を得るために事実ベースでは雑な主張をしてしまうということもある気がします。
 そしてもう一つ、あえて雑で曖昧にすることで守ろうとしているものがあるんじゃないかという気もしています。統一協会問題でいえば「よくわかんないけど」全部ダメそう、という主張なわけです。まず全部ダメそうと上から目線で嘆く快感があって、一方でよくわからないから完全に絶望だとわかりきったわけでもない。わかってる人はうまいことやってくれるのかもしれないという、不確かさに甘えた楽観が無意識の中に少しはあるのかもしれません。その立場は確かに、暗い安らぎをたたえて不気味な魅力を放ってています。

雑な主張に甘んじたくない

 雑な主張には前述のように暗い魅力があります。しかし、雑な主張をする立場でいる限り、「よくわかんないけど全部どうしようもないんだ」という無力感を抱えて生きていくことになります。
 嫌な事実と向き合い、空気を壊すことを折り込むことは大変です。一方でその大変さを乗り越えて詳細な事実と向き合うことがある種の希望を与える場合もあります。そして、何かしらの希望を抱きながら生きていける方がいいと私は思います。
 雑な主張に甘んじないことが簡単とは言いません。自分もそのようにしているからあなたもやってくれという話でもありません。むしろ、雑な主張を許さないことは難しいし自分もできていないから今年はやってみたいなと、私はそう思っています。

 雑な主張の背景にあるかもしれないと挙げた理由は3つとも、私自身が実際にどこかで同意していて、同時に乗り越えたいと思っているものです。統一協会問題の雑な主張に私がいらついたのは、ほかのところで私も同じように雑なことをしていると感じとったからなんだろうと思います。何事も、雑な主張に甘えずに細かいところを問いかけて事実を明らかにするから見出せる活路があるものだと私は直感しています。その時に必要なのは勇気です。重要な問いかけをしたら空気を壊すかもしれない、事実を調べたらそれは絶望的なものかもしれない、といったためらいを超えるための力が必要です。絶望を引き受ける覚悟のない人間に希望を掴むことはできないと私は思います。

雑な主張に甘んじないためにできること

 雑な主張に甘んじないために必要なのはたくさん調べることです。ただ、闇雲にたくさん調べようというのでは何も言っていないのと同じだと思います。
 雑な主張をしないために必要なのは問いかけることだと思います。「全部ダメ」と言いたくなったら「具体例は?」と問いかけ、「統一協会問題が深刻」と言いたくなれば「何が問題なの?自分の大切にしたいものとどう衝突しているの?」と問いかける。自問自答でやるだけではなくて、誰かと政治の話をしながらそういう問いかけをできるようになれば、調べるべきことが何の問題でも自然と見えてくると思います。
 雑な主張に甘えずに、調べるべきことを明らかにしよう、そのために問いかけることをためらわないようにしよう、明らかになるまで問い質そうというのが私の今年の抱負です。質問を飲み込まない態度でいてこそ望める眺めが多分ある気がします。




付録:統一協会問題についての備忘録

 備忘録もかねて統一協会問題についてさらっておきます。おまけなので、読んで得るものはそんなにないと思います。

 統一協会は構成員に対して数千万規模の高額献金を求める反社会的なカルト集団でした。マインドコントロール的な手法を合わせて献金を集めるため、献金がきっかけで構成員の人間関係が破綻することもありました。たとえば家族のお金に手を付けるなどして。
 また、合同結婚式と称して統一協会側が婚姻の相手を差配して結婚させる、といったイベントをしていました。そういった独特の家族観を共有する団体であったこともあって構成員の子ども世代にも影響が及び、これは二世問題として当事者である子世代の人たちが記者会見をする事態にもなりました。
 私が学生なので付け加えておくと、統一協会は「原理研究会」「CARP」といった名称のサークルを様々な学内にもっており、ここを通じて学生の構成員を獲得していました。2日から始まって数週間に及ぶ複数の合宿による洗脳など、巧妙な手口で学生を獲得していました。構成員になった学生の中には学生生活を台無しにされたと言いたくなるような状況の学生もいたようです。大学当局や様々な学生団体も問題視し、注意喚起などを行ってきました。

 統一協会は数十年前から存在していましたし反社会的な手法も以前からとっていましたが、世間の政治談議で第一に挙がるほど問題になったのは、2022年の参議院議員選挙の終盤に安倍元首相が演説中に銃撃されたことがきっかけでした。
 銃撃犯の動機については様々な憶測が流れました。テロだとか、左翼の暴走だとか。結局、動機は統一協会の構成員の家族による私怨でした。統一協会への献金のせいで家族がめちゃくちゃになったため、統一協会と近い政治家で影響力のある安倍元首相を銃撃した、というものでした。

山上容疑者は犯行の動機について、「母親が宗教団体の信者で多額の寄付をして破産したので、成敗しないといけないと思った」「元々は団体の幹部を狙うつもりだった」「以前から安倍元首相と宗教団体の関係についても調べていた」などと供述しています。

FNN, 2022/07/11

 事件後の報道や調査の中で統一協会と政治の癒着が次々と明らかになりました。騒動の中で明らかになった分もありますが、もともと調べられていたことが改めて世間の知るところとなった、という内容もあるようです。
 癒着の内容は様々でしたが、国会議員も地方議員も、左右も超えて様々な政治家が統一協会やその関連団体から献金を得たり、選挙スタッフの人手を得たり、票をもらったりしていたということです。政治家個人によって癒着の程度には濃淡があり、さらに政党ごとにも濃淡がありました。したがって発覚した癒着への対処も政党ごとに真剣みの異なるものになりました。
 結局、悪質な寄付を禁ずる内容の被害者救済法案が国会で可決されて騒動がひとまずの落ち着きを見せました。この救済法案については、最も癒着の程度が濃くしかも国会で最も議席を持っている自民党の手によって骨抜きにされてしまった部分があると私は思っています。

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