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美術を愛する人は美しい作品を作るのが好き。そして温かい。 #生成AI新年会

割引あり

先日、日経新聞さんの取材で「生成AIと芸術・美術・科学」というコンテキストでこの話をさせていただいたんだけど、実は「美術と芸術の違い」って、日本の社会ではあまり認識されていないよね、という感じがしたのでちょっとおじさんがいつも思ってる事を書き並べてみる。

美術は本質的には他者と関わる必要がない
芸術は他者との関わりで価値が生まれる

自分の中の美との戦いなんだよね。
作れる作れないのスキルの話もあるんだけど、心の中に美に対する探究心がないとスキルの向上まで辿り着かない。
もちろん学習効率も関係する。そもそも絵を描くのが上手くなるスピードが速い人とそうでない人ってのがいて、見ているものが違う。

感じる力。見る力。
それがあってこその描く筋力。

そして成長する筋力がないと描き続けられない。

芸術については、美術と似てはいるけれど芸を極めるってのは「美だけじゃない」。美しさと面白さ、ぐらいに違う。
シラーによると美的とは形式衝動であり、面白さとは遊戯衝動。美しい線と面白い線は違う。
多様性があり、他者の主観によって意味を変える。
内在する美は他者の感覚でブレる必要がない。

成長する筋肉はここでも重要で、
世間に受け入れられている画風なりをどんどん取り込んでいくスキルが役に立つ。
もちろん無くても巨匠にはなれるかもしれないけど画風に飽きられると記号化する。

記号化ってゲームとか生成AIでは重要な視点で、漫画とかデフォルメとか表情ってのは複雑に描きこめば描きこむほど解釈が多様になる。
読み手の知識や認知やコンテキスト理解が必要になる。
生成AIってのはemojiに例えるとわかりやすい。
これは表現なのであり、感情の表出なのであり、世界統一言語なのだ。

標準化したドコモやKurita氏の貢献もあるが、それより前にワープロやパンタイプの頃から日本人は記号を使ってきた。

知的財産権wl主張してもいいが、あるところまで行くと今度は公共性を持ってしまう技術ってあるよね。

印刷機以降の複製芸術と技術の話ならいくらでもできる。

芸術と美術は複製芸術とも関係がある。

リソグラフでそれを問う時代もあったし、オークション落札金額で価値を測るアートもある。

その中で、自己の認知や新年による内在する美ではなく、「権威づけられる美」が入ってくるとややこしくなる。

原始の美は鑑賞する能力が追いついていない方々を置いて成長していくこともできるが、圧倒的なリアリズムや迫力によって人々を動かす力のある作品もある。

では、無垢な子供たちが作った作品が無価値と言えるだろうか。



売れるとか知名度が高いとか難度が高いとか、いろいろあるかもだけど、キュレーターがいない世界では芸術はそだたない。
「誰だってできるだろそんな事は」多くの人がそう思っているうちは難しい。

実際にやる人が増えないと評価も難しいんだ。


それから、別件で「ゲームは第10芸術」という話をした。
フランスの哲学、ゼロ年代、コロナ前の話題だ。

「ゲームは第10芸術」、という話を検索していて自分の書籍の書評にぶちあたった・・・よき体験だ…

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