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街中に天使を見つける

大きな仕事もひと段落したのでしばし充電時間として作家としてのエッセイを書いてみた。

普段から写真を撮る習慣があり、それは写真大学の頃から変わっていない。
初めて自分のカメラを持った高校生の頃からだろうか。
ファインダー越しにものを見て、ピントを合わせて、時間を、切り取る。

撮った瞬間は撮った本人だって気がついていなかった
美しさ、面白さ、尊さがある。
誰も気がついていないその瞬間の「尊さ」がある。
フレーミングひとつで変わる。

こうやってフォトグラファーは、
他の人間にはない「人間を見る目」を身につけてしまう。

実は人間だけじゃない、動物とか建築とかを対象にしているフォトグラファーは、どんなにいいカメラや機材を使っていても。
まず目が良くないと凡庸な写真しか撮れないし、
良いものを見抜く「眼」が良くなってしまうのではないかなと思う。

生成AIとボーカロイドの違い

昨夜852話氏が興味深いつぶやきをした。
肯定できるところもある
否定する気はない。メモしておきたい。

自分はボカロ台頭時代を通ってきているからなんとなく感じていることがあって、初期はこの生成AIをボカロ初期と似ていると考えていたが、この2年を経て実際は生成AIはボーカロイド文化とはこれから少し違う広がり方をするだろうなと思っている。

何が違うかと言うと、歌は雑に分けて「曲を作る"人"」「歌を歌う"人"」がいて、そこに「うたう"ボカロ"(または楽器としての)」が追加された形に落ち着いた。
が、生成AIでの一枚絵については「描く"人"」「描かれた"キャラ"」がデカく、ここに"AI"が人から愛着を持つ形で入り込めないと感じている。

「AIを人がツールとして使った」と考えて今まで通り「人への評価」をする人と
「"AI"が作った」とする人に大きく分かれると思っていて後者の場合
歌手がボカロに差し替わっても後から"歌ってみた"で交換出来、作曲者という人間の存在が残った
のと違って
「AI」と「キャラ」では「人間」が残らない

人間の像が見えない(見えにくい)と作品単体での評価になりファンがつきにくく、結果、純粋なコンテンツ勝負色が強くなる
今の(絵だけの)AI術師は「作品の公開傾向が安定している」人は見られやすいが外れると難しくなる。"絵だけの術師"で人気を博すのは厳しそう。特にエロや二次創作じゃない場合

そうなると結局残るのは「ツールとして使って"人"に人気がある場合」「作業した"人"の名前が世に出ない仕事(結構多い)」になって、「AIの絵だから良いよね」がボカロシーンほど像として成長すると考えづらい。というか、ボカロはツールでありつつコンテンツだったけどAIはコンテンツじゃない

だから、AIは道具以上にならない。多分。普通にツールとして広がって終わりだと思う。

一連のツイートチェーンから
https://x.com/8co28/status/1768636628929810711?s=20

もともとツイートチェーンなのでまずはツイートとして読んでみて欲しいし、繋げた文としても読んで見て欲しい。最後の「ツールとして広がって終わりだと思う」も単独ツイートとしてみればせつないし、一連のコンテキストとしてみれば、むしろ使い手にとって「ツールだ」と諦めがつく。
写真を出自とする作家としては「AIはカメラ」と聞こえない事もない。

僕自身の考え方

AI作品に作者性が強く介在するかどうかは、描くもの次第であって。
風景とかSFとかではなく、人物とかキャラクターイラストを描く話に一旦絞っておく。

少なくともこの2年の期間でここまでの思考になるのか、書籍を書いた当人(私や852話さん)たちが想像していたかというと、そうではなかったと思う。

2022年の10月ごろに書いた書籍、その頃の原稿などを見ると、まだまだわかっていなかったと振り返ることができる。

当時はどんなモデルを使ってどんなプロンプトでこれを描いていたんだろう。わかっていなかったからこそ作れた、という時代ならではの「尊さ」があるとはいえまいか。
モデルがどうとか、マスピ顔がどうとか、いろいろ言いたい人はいるが、当時はNovelAIだってなかった時代なんだ。

何をやっても新しく、何をやっても刺激的であり、何をやっても輝いている。

誤解を恐れず表現すればこれは「作家の処女性」とか「童貞性」といったものであり、AI時代も道具論とは別に存在している。

(ここから先はしばらく「処女」とか「童貞」とか性的比喩表現がしばらく続くので、そういうワードが苦手な人は次の絵が出てくるところまで読み飛ばすことをおすすめします)

一線を超えていく前の「尊さ」

男性か女性かに限らず、作家の処女性とか童貞性といった要素や定義や「エポック」(時期/時代/世代)がある。

そして童貞と処女にも「違い」がある。
(この話の性別とか性的指向はまずは忘れて)
生まれてきた時はみんな処女であり童貞だ。
もちろん盛って生まれたハードウェアとしての「性」はあるが、第二次性徴を迎える頃には、性自認と性欲が生まれる。
男子的な性自認と男子的な性欲、
女子的な性自認と女子的な制欲。

これを作品制作に当てはめると、
作品を作って作って作っていく過程で、自らの欲望(リビドー:libido, 快感を満たすための原動力となる衝動を生む仮想的なエネルギーのこと)と向き合う必要がある。「1girl」で満足できるうちはいいが、より重厚なプロンプトや手の込んだネガティブプロンプト、img2img、ContolNet、LoRA、モデルマージなど、気がつけば沼という沼で自らのマスターベーションを高度にしていく……これが童貞性のなせる技と言えるかもしれない。まだ見ぬ快楽への飽くなき探究。失うものは何もない。時間以外は。

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童貞性はファンタジーを生む。リビドーが妄想力を刺激するし、それだけで産業が回ることすらある・よく「エロビデオがVHSを普及させた」というオジサンがいるが、そうではない。「リビドーで消費者を駆動する市場を発見した」ということに過ぎない。VTuberや配信の世界なら「投げ銭」だろう。生成AIにおいてもChatGPTしかり、画像生成サービスしかり、自己完結できるリビドードリブンな、つまりマスターベーション的な演算サービスはこれからも一定の伸びがあるし、期待もしている。

一方で、童貞性が失われていくと、リビドーが弱くなるという運命がある。男子は女子に比べると人生の長い期間リビドーを持ち続けるが、それでも継続性、とくに再挑戦性と探究力が弱くなる。これは段階的なもので、単純に表現すれば「長い期間をかけて飽きる」のだと思う。もしくは早漏という才能がありすぎて「1girl」で瞬時に満たされてしまう。ChatGPTなり文書生成チャットサービスに飽きる人たちはとっくに飽きている。魚類にくらべれば人類はねちこいコミュニケーションが求められる。カマキリほどではないけれど。

いずれにせよ、リビドーの繰り返し、その延長によって「作家の童貞性」は失われていく。何度もいうがこれは男女の別なく、社会との接点や評価があるかないかにかかわらず、「本人の脳が飽きる」のである。
社会との関わりが少ないうちにたくさんの良作を作れるひとは運が良いが、特に他者との関わりで失われていく。他人の依頼で絵を生成したり、プロとしての対価をもらったりすると変わる。つまりそれは「童貞」ではなく「大人になった」という事で、経験を持ち、他者と関わることで大人になる。大人になっちゃうと責任も自覚も必要になる。他人の作った違法性が高いLoRAで違法性が高い画像を生成していた童貞時代は自分のストレージに宇宙を拡げていればよかったけれど、そうじゃない宇宙についても考えられるようになっていく。

男子はいいんだ、失うものは何もない。
むしろ童貞時代が長いほうが幸せなのかもしれない。
(これは作家の男女の性別の話ではない)

処女性は似ているが違う。ひとことで表現すれば「不可逆的」だ。童貞性のような社会との接点に共通する要素はあれど、男子の童貞向けメディアと異なり、その楽しみは「秘め事」であることが多く、流通が難しい。男子はエロ本を回し読みできるが、女子はそんなことはなかなかできない。外部に露出する要素と、内臓として守られている要素、という意味でも違う愛する対象を「自分だけの世界」に保有する。愛する対象を「自分だけの世界」に保有するか「他人とシェアできるか」という点が異なる。美と芸ぐらい違う。いろんな刺激を脳で受けるが、作家の童貞性はリビドーや刺激を受ければわかりやすく反応すればいい、でも処女性は気づかれない、むしろできれば他人に知られたくないような要素として成熟を迎える。同じ趣味を持った女子同士ならともかく男子(異文化)には絶対知られたくないし、立ち入ってほしくはない。秘め事だからこそできるし、だからこそそこから生まれてくる作品は尊い。作家の処女性は「鶴の恩返し」みたいなものをイメージしていただけるとちょうど良いのかもしれない。いくら世間で価値があったとしても、それを生み出す姿は見られてはならない、見せたり、売りのものにするつもりで流通させるべきでもない。

作家の童貞性、処女性。このエポックは汎化性能は必要なく、自分の好きなものを好きなだけ描いている時代。
本人たちは気づいていないが「それを通過してきてしまった大人たち」は「尊いな…」と思って見ている(少なくともぼくはそうみている)。

そして作家の処女性は失われる可能性がある。運命的に。

「失われる」とか「運命的に」と表現してしまったが、作品や作家の人生においては、むしろ運命とか事故とかが決定論的に生まれてしまう。それは作家が作家たるゆえんであり、作家で有り続けるために必要なのだ。
(男子であろうが女子であろうが)はじめて何かをする時に伴う痛みとか、社会との接点とか、覚悟とか、可逆性とかで表現しておく。とても辛いトンネルを抜けた向こうでしかわからない作家性がある。本人としては選んで捨てていく、好きなコミュニケーションの一つとして理解して乗り越えていくという事であって欲しい。間違っても他人に蹂躙された、とか勝手に売り飛ばされたといったことでがない事を祈る。

そうやって、作家は産まれる。
考えてみれば生まれた時は誰もが処女童貞なのだけど、おそろしいことに、その父母、生みの親は絶対に非処女で非童貞なのである。しかも同性愛でも異種結合でもない。「同種で異性」という、コミュニケーションの中でもかなり難度が高い、どう考えても喧嘩にしかならなさそうな、「同種の異性」がリビドーと信頼と探究によって遺伝子を放ち、運良く融合し、着床し、数ヶ月の期間、母体を支配して発生し、そして未完全な姿でこの世に肉体を得る。イエスキリストだってそうやってこの地に降り立ったんだ。

この過程に、生成AIが絡んでいる。
人間の創作のリビドー、つまり他者との関わり関係なくマスターベーションレベルの自己快楽衝動にAIが絡んでくるという時代に僕たちは生きている。
とても気持ち悪い話だと思うが、今までの作品という作品、好きな作品も嫌いな作品も、知らない作品も、すべてを喰ったモデルの重みには、処女も童貞もその人々のエポック、つまり初期ピカソも後期ピカソも重みの違いこそあれ、「30年と30秒」で「ピカソ」というプロンプトで生成されていく。それが僕らのリビドーで「秘め事」を生み出している状態。かもしれない。

ちなみにここまでの話。あえて「処女」とか「童貞」といった性的コミュニケーションについての経験の有無に置き換えて話をしているが、これは「人生においてやらなくても生きていけるコミュニケーションの経験、もしくは次世代への子作りの行為」という置き換えをして読んでみてほしい。もしくは自らの「創作の渦」の話に置き換えて読んでみて欲しい。「自分が経験したことがない世界」にどこまで想像力妄想力を膨らませてものづくりすることができるか。それはまだ見ぬ異性(同性でもいい)まだ見ぬ交流なのであって、本当は存在しないかもしれないし、実際にはもっとエグくてグロくてエロい世界かもしれない。エロ漫画だけをみてエロ漫画を描ける人もいるだろうが、エロ漫画における新たな探求に人類の尊い挑戦がなければ表現ひとつだって生まれては来ないだろう。

だいぶエログロい例えになってしまったのだけれど、もう少し突っ込んだ例で例えれば、キリスト教では聖母マリアは処女で懐胎している。医学的にも生物的にもそんなのおかしい、とか、処女懐胎するから神なんだ、とかそういうことを言っているのではない。そこでニヤニヤする男子がキモい。神のような超越した上位存在が人間の意志と関係なく、地上に肉体を持ってオギャーと産まれてきた尊さ。それが「受肉」なのであって、そういう存在がいてもいい、と信じられる人にとってのみ尊い。これをアバターとか、クリエイター、とかAI時代のクリエイターとかアバターとかに置き換えていくと、いろいろなことが見えてくると思う。

人は何歳でも処女童貞になれる。新しい挑戦をするならば。

(なお補足しておくけど僕の性的指向はそこそこに複雑です。だからこそこんな文章書くんだな、って心にとめおいてください)


(性的比喩表現が生々しいところはここまで、以降はちょっと弱めて全般向け表現)

追記:「精神的処女性」

同じことを感じている人がいた。元カノボットの本田さん。

ぼくなんかよりも短い文章で的確に言い得ていてすばらしい。

以下は作品制作の横で考えていた駄文なので買わなくていいです。


AIが天使を描く

例えばこれは日々のスナップ写真から生成した画像。
なぜか天使の輪がある。

なんでこの写真とこの生成だけこんなことになったのかわからないけど、たぶん被写体の髪が綺麗な異方性反射をしていて、ライティングとあいまっていて、というCG的な説明はできなくもない。機械学習的には Stable Diffusionの内部で使用しているCLIPの過去絵にそういうルネッサンス調の天使画があったんだろうか、とか。でも何回生成しても同じ絵は出てこなかったし、この照れの中にも嬉しみがある表情とか、胸周りの絶妙な起伏と陰影表現とか、プロンプトではあまりにもゲスになってしまうであろう表現が、image2imageによって、もともとの画像に潜在していた「尊い要素」が現像された。そう、アナログ写真に例えれば、暗室の現像液のなかで像が浮かび上がってきたので、そのインスピレーションを作品に仕上げるために何度も引き伸ばし機と現像・停止・定着プロセスを経て仕上げていこうと思った。

全てのアナログ写真作品はこうやって産まれている。
途中でラボに現像引き伸ばしプロセスを頼む人もいたかもしれないが、現在はプロのラボ以外は自分でやるしか無い。デジタル写真と違って、廃液の処理もしなければならないから責任もコストも大きい。ホビーとしてはかつてはメジャーなホビーではあったが、現代はあまりにもおすすめしづらい。

でもこのままでは「作品」にはならない

そう、アナログ写真から画像生成AI時代に戻ってくると、生成された画像をそのまま「僕の作品です(AI)」という行為は、生成AIの作家性やその学習においては「童貞エポック」であり、マスターベーションを楽しんでいる時代として例えられるだろう。他者はそれを指摘する必要はなく「それは必要な時代なんだと」思って許してあげて欲しい。ママはそういうの『見つけても見なかったこと』にしてあげて。そういう時代が僕にもありました。
「童貞ならではの妄想」はイマジネーションの源泉として強い分野(特にわかりやすいのはエロ)だけど、諸刃の剣でもある。特に画像生成AIの入り口だけ触って偏見を持つ人々の多くにいらっしゃる。炎上もする。

「処女性」を生成AIにおいてひとつ例えるなら「制約」がある。プロンプトに有名キャラクターや実在の人物名を入れない、商標侵害をしない、モデルを制限する。作った作品を外にシェアすることで失われていく「作家の童貞性」と違って、作家の処女性は強く売りのものにしてもそれなりに価値はあるがゲスになってしまうし、売り物にしないで自然に滲み出てくるぐらいがちょうどよい世界観なのである。変態だな。変態ついでに僕自身もいろいろな経験をしてきた人間なので、時には童貞のように、時には処女のような感性を持って作品を作っている。

感性と経験と情熱だけが残る作家性

そんなわけで、AI時代の作家性は、感性と経験と情熱だけが作家性において重要になってくる。技能がコモディティ化してしまうから。
とはいえ自分はフォトグラファーでもあるので、切り取る時間の尊さとか、出来上がった画像のトリミングやレイアウトでグッと作家性を上げていく。さらに文章やタイトルといったコンテキストを加えて、やっと「作品」になる、と考えている。考えているけどこれもLAIONなりCLIPなりに取り込まれていくミームに過ぎないのかもしれない。

もちろんTwitterのような気軽さならではの方向性もある

でもどうだろ、ここまで書き連ねてきて、やっとこのエッセイは作品になったのではないだろうか。
サムネ画像のトリミングとレイアウトと、原作のどちらも良いし、メッセージを感じる。ちょっとエログロが混ざっているけどエログロのためにではなく「尊さ」を大事にしたい世界感が伝えられれば、良いと思う。

彼女の右目がしっかりと描かれていることは、
僕がトーンカーブを調整しなければ気づかれないことでしょう。

作品タイトル「街中に天使を見つける」

作品タイトル「街中に天使を見つける」

最後に、この作品のタイトルを解説しておく。
でもこれは作品にとって「余計な事」かもしれないし、この写真のモデルになった人や知った人の人生を大きく変えてしまうかもしれないので有料にしておきます。見なくていいです。

ここまで読んでくれてありがとうでした。
全部で10,000文字を超えました。
読者として愛しております。
良い週末をお過ごしください。

このツイートをRPするといいかも

https://x.com/o_ob/status/1768928267426492471?s=46&t=jgQwk-8DSR4rWrfqK70Ylw

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