恋愛セックス抜きがいい
連続投稿、途切れちゃった!
9月忙しすぎた。誰ですか、こんな予定を組んだのは。私だ。
表題は、肉欲が一番わけわからんからそれさえ除いてくれたらそこにあるのはただの幸せだろ、みたいな。そんなラーメンみたいな注文通るわけないんだが。
人間に会いすぎたので書き散らし、覚え書き。最近の日記。
世の中がさぁ、pixivの全年齢指定ジャンルみたいになったら人類は当然滅びるんだけど、でも理性の獣としての理想郷のような気もする。と、恋愛系洋楽のMVを見て思った。
できることはハグとキスとスキンシップ、コンプラ上それらのみで画は完結していなければならないので、あとはひたすら幸せそうに笑う二人が映る。美しいと思う。そういう風になれたら。そういう人生であったなら。
自分以外の人間から向けられる感情がよくわからないから、思い込みもできない。目の前の後輩が向ける謝意は、敬意は、嘘か真か判断がつかない。言葉には喜ぼう。礼には礼を、尊敬には尊敬を。乗せられた感情が分からずとも、言葉そのものに価値はある。
私は結局のところ自己肯定感が低いというか、私は「できることをできるだけやる」という行動原理を取っているので、褒めてもらうほどの意味はその行動にさほど乗っていないのだ。私は私の手の届く範囲で事を成しているだけ。報われたいと願うことは私にとっては総合的に不幸のはじまりになるからだ。
あと、口説くLv:1みたいなことを後輩に言われた時、酒の席なのに反射で言葉の足で蹴ってしまったことをここで謝罪したい。申し訳ない。わからない、こわい、意味がないの感情のごたまぜで、嫌なことを言ってしまった。好きあう男女の睦言はかわいいと思うけど、私と他人でそれはまだ厳しいらしい。
とはいえ、私は自分が篭絡されるポイントがあんまりわかっていないので、あまり口説きは効かないんだろうな、とちょっと思っている。なんで友人たちのことが大好きなのかも、実は不明瞭だ。ほんの少しだけ本当に、彼女らは私を愛してくれているようだから、それに最大限応えているだけで。でも、その愛も、十分には信じていない。今はきっとその方が幸福だからだ。愛に堕ちていけるほど、まだ人間ができてないので。
というか最近またちょっと疑い始めた。私がいない方が世界も友情も上手く回るんだろうな、みたいな。まあ、「いらない子」ならそれでいいから、どうか綺麗さっぱり捨てて欲しい。愛してないなら会わなくていい。私はそのほんの少しの真実の愛だけで、誠の友情に仕えているので。
私は思ったよりも「できない子」らしい。
できる、と思っていたことも、最近は勘違いのような気がしてきた。私は存外平凡で、取り柄もなく、ただ言葉を飯にして生きているだけの怠惰な人間だ。「すごい」ことも、「えらい」ことも特にできない。別にそれで悲しむほどのプライドはないけれど、さみしいな、という気持ちはちょっとある。栄光にすがるというよりは、昔貰って飾ってあった小さなトロフィーをゆっくり磨きながら、あの時はこんなことも出来てたっけな、と思い出すようなさみしさ。もう戻らない時を、一番近くに感じる。
友達。友達って私より大人だ。でも私より子供でもあって、最近ちょっと混乱する。
私の倫理と論理ではしないことを彼女らはして、私の知識と経験では知らないことを彼女らは知っている。なりたいとなりたくないが同居していて、少し困る。
私は恋も愛もまだわからない。でも学生のうちに子を産むには責任能力が足りないと考えているし、だからノーセーフな行為はするべきではないと思う。あと、簡単に腹を立てたり、苛立ちを見せたりもなるべくしない。(私が感情を見せる時は概ね自己顕示欲を満たすためだ──そしてそれは大抵すぐに収まる)そのくらい友人達を愛しているからなのか、そこまで愛してはいないからなのか、理由は不明確だ。
私は高名な地名も、ブランド品や化粧品の善し悪しも、かつてのクラスメイトの名前も覚えていない。あまり興味がないし、必要もないからだ。でもそれを頭の中の引き出しに所持できているのは一般社会生物としてとても素晴らしいことだと思う。私にはその容量も、要領もない。世界に対してものすごく彩度の薄い私を受け入れてくれること、それはとても得がたい事だし、できれば、それに甘んじず成長したいと思ってもいる。
私は彼女らを愛している。でも、苦手なところがほんの少し増えた。近づきすぎたからだ。改善して欲しい気持ちもあるが、きっとそう願うことはないだろう。願えば多分、彼女らは私の友人ではなくなる気がする。きっともっと愛されて、きっともっと自由で良い関係を、彼女たちは築けるからだ。私にとっては後にも先にもない関係を、私からはどうか壊したくない。私も少しだけ彼女らのように、自由で、わがままでいればいいんだろうけど、多分これこそ代償なのだ。だからもう少し、この痛みは眠らせておくことにする。
堕ちてきてほしいな。
貴女たち以外いないよって、この手の中に。
そうしたら、「ずっと前から、私もそう思ってるよ」って閉じ込められるのにね。ああこれってモラハラだ。手に入れて安堵してから、自分好みに作り変えようとしてる。そんなのは許されない。でも、じゃあずっと、私は少しだけ痛みながら彼女らと共に在るのだろうか。
首を真綿で締められるような感覚と共に。
ここからより最近の日記。
人と話すことは効率で語れるものではないし、全て無駄ではないということもわかっている。ただ、他人同士の「管を巻く」パートに巻き込まれるのって結構しんどいなって思ってしまう。
バイト先の人々って、私にとっては別に友達ではないんだよな。同期だし、仲間だけど、休日に遊ぶかって言われたらそうではない。だから、キツいシフトとか、ヤバい状況を共に乗り越えたらお疲れ様の晩酌くらいはしたくなるけど、そうじゃなければすみやかに事を成してすみやかに解散するのが互いのためになると思っている。絶対閉店後にダラダラ賄いを食べてスマホをいじる無言タイムを続けるよりは家に帰って寝た方が元気になれると思うので。でも、なんか、うーん、そうはならないので、人間って不思議だな。場に任せきりだとマジで帰るタイミングが「終電あるから〜」くらいしかなくて、賄いは食べたいし少しおしゃべりもしたいけど、最後は大体謎の時間を浪費してるだけになる(しかも別におしゃべりで盛り上がるとかもなく、皆してスマホを眺めてるだけだ)。
その時間が無駄、とも、非効率、とも言い切れないことはわかってるんだけどさ……じゃあなんで私が食べ終わった皿眺めてても仕方ないよなーと思って洗い始めると皆帰り支度を始めるんだよ!いいよまだ座ってて!笑
急かしてると思われてる可能性は十二分にあるけど、別に早く帰りたいなら最初から「明日早くて〜」とか言い訳して賄い食べずに帰るから。ううんもうよく分からん。多分周囲との同調ゆえの行動なんだと思うんだけど、スマホ見てるだけなら店内で集ってる意味なくないか?、というのは無作法なんだろうな……。なるべくそういう雰囲気には乗っておきたいが、乗り続けると普通に私が体壊すので塩梅が難しい。ね。皆どうしてるんだろう。
まあ普通に自己中なんだよな。
というか、自己中な生活をしないと容易に死ぬメンタルなので、ある程度大切にしておかないといけない。メンタルを損傷すると激鬱になるというよりは、周囲に対する攻撃性が今よりも上がるのでシンプルに社会にとっての害だ。別に悪人になりたい訳じゃないので、日常で少しずつ「ちょっぴり悪いこと」をしてバランスを取っている。例えば、閉店後の集いをそこそこに切り上げるとか、興味のない公演には宣伝されてもいかないとか。そこで得られる経験値や情報と、費やされる体力気力諸々に釣り合いが取れてないなと思ったら私はやめとく方だ。効率厨、とそしられることはわかってるんだけど、それを繰り返したことで私や周囲に明確な変化が起こるとも、起こせるとも思わない。というか思えない。
いや、だから本当に、他人の好感度メーター把握して操作の対象にできる人はスゲ〜〜〜〜よ!!!!!!!!
この前バ先の同期と話してて、「今日死ぬほど忙しかったけど、こんな例外で辞めてほしくないから後輩にこういう声かけしたんだ〜」みたいなこと言ってて目からドバドバ鱗出たもん。まず「店が死ぬほど忙しい」→「後輩が辛いと感じて辞めるかも」ってことの因果関係をハッキリ理解してるのも凄いし、それを前提に「辞めないような声かけ」ができることも凄い。
私は本当にそういうところが欠けているというか基本他人にあまり期待していないので、「新人だろうがベテランだろうが辞める時は辞める」と思ってるし、「辞めるという個人の判断に他人は介在できない」と思っている。もうこれは固定観念だ。私だって誰かの一言で救われたことはあるけれど、そんな奇跡はそうそう発生するものでもないし、そもそも発生を意図的に操作できることでもないと思っていた。
でもこれ、できる人にはできるんですよ。
マジですごい。信じられない。要は乙女ゲーの選択肢で最適解を意図的に、意識的に引けるってことだ。そんな人間存在するんだ、存在するんですよ、すごいよね。私の友人もそういうタイプなんだけど、何回みても神業すぎるなと思う。というか私が動物的あるいは機械的に生きすぎなんだろう。
私はとにかく人間に対する興味の範囲が狭いし深い。
例えば、自分の大の親友に彼氏ができたとする。普通は、自分の友達の彼氏がどういう人間なのか情報収集をするんだそうだ。
倫理観や価値観はまともだろうか、友人を大切にしているだろうか、その相手で本当に友人は幸せになれそうか、等々。それは友人を守るためでも、自分に余波が及ばないためでもある。
ところが。私は「友人の彼氏」というものに一切の興味が持てないのだ。むしろ私の前では話をして欲しくないと思ってさえいる。
なぜか。
それは「友人の彼氏」は私にとっての他人だからだ。それが「友人の夫」になったとしても、知人には昇格しても友人にはならない。
私は、私に見せてくれる友人の側面だけを愛している。それしか愛してはいけないと、思っている。
人間にはいくつもの側面がある。友人が私に見せるのは友人の一側面で、それは彼氏に向けるものとも、家族に向けるものとも違うことを私は承知している。本当は、全部欲しい。でも絶対に与えられることはないのだ、人間が社会生物である限りは。
だから、見ない。求めない。知ろうとしない。──愛さない。彼女が彼氏に向ける笑顔なんて知りたくもない。なんで私にはそれをくれないのかと、理不尽にも思ってしまうから。
彼氏に泣かされようが、愛されようが、私に与えられ、私が影響を及ぼしていい範囲にその彼女はいない。もし、「友人」として彼女が私に助けを求めるのならば、最大限の力を貸すけれど、そうでないのならば、それは彼女だけの感情で、彼女だけの人生だ。
彼女が笑顔であればいいと願う。
でもその笑顔は、私だけのものじゃない。
ナンバーワンにならなくてもいいから、オンリーワンでありたいというのは結構切実な願望だ。もちろん私は普遍的でありふれた、よくいる人間のパターンの一つに過ぎないけれど、私の思う私の唯一性を愛してくれる人がいるなら、その恋人になってみたい。そしてその唯一性に対する愛を信じるためには、やはり肉欲が一番邪魔だなと思う。
人間は動物なのに、動物らしくない知性を持っているのはある意味不幸かもしれない。
それでも、私が愛しているのはその知性なのだ。
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