人間

自分で言うのも何だが、俺は今まで真っ当な人生を送っているとは言えないし、真っ当な人格に育ったとも思っていない。
人格が歪み始めたのはいつだったか、ふと思い出したんだが、小学生の頃に嫌いな給食を昼休みまで居残りさせられて無理やり食べさせられたことは確実に大きな原因になっていると思っている。

俺が給食を食べなかったとして、それが誰の迷惑になるのか。食べ物を粗末にするのが良くないと言うなら、そもそも給食なんて出してくれなくていい。俺だけ弁当を食うか、あるいは昼食無しでもいい。とにかく、嫌なものを無理やり食べさせないでほしい。
そんな話をどれだけしたところで、教師というやつは「ワガママ言うな、食え」以外の言葉を何も返してこない。一人だけ晒し者にされて、冷めて乾いた野菜の煮物を泣きながら見ている俺に、給食のおばちゃんの苦労がどうだとか、アフリカでは食べたいと思っても食べられない人がいるとか、何一つ論理性のない話をして「教育」をしてくれる。そんな気の狂った大人が小学校の教師というやつだ。そんな状況で、狂わずにいる方が無理な話だ。
かくして、入学時に「みんなの中心、明るいムードメーカー」と書かれていた少年は、卒業する頃には「自分の考えを持っているのは良いのだが、こうも協調性が無いのはいかがなものか」と通知表に書かれる、立派なはみ出し者になった。気の狂った大人に俺は狂わされ、俺が狂ったことを気の狂った大人に非難される。ここは地獄だ。

世の中の、偏食に対する風当たりの強さと言うか、理解の無さは本当に救いがたいと思っていて、だって特定の食品に対して「美味しいと思えない、吐くほど嫌い」と感じるなんて一種の摂食障害とか、アレルギーと大差ないだろうに、大人たちはそれを「ただのワガママ」としか認識していない。
俺は一応「偏食」という言い方を毎回使っているが、世の中ではもっとポピュラーな言い方がある。「好き嫌い」だ。もう、この呼び方の時点で軽視しているのがよく分かる。
世の認識がこんな調子なので、フィクションにおいても子供の偏食なんて「本当に美味しい料理を作ってあげれば直る」なんて夢物語を信じていたり、「農家の苦労を理解すれば野菜の価値が理解できる」なんて宗教的な思考で解決すると思っていたりする。
俺はこういう、子供の苦しみを一切理解せず、大人の無理解な思想を一方的に押し付け、子供が必死に我慢していることにも気付かずに「好き嫌いを治すために協力してあげている」なんて妄想に浸っている行為に対して、本当に吐き気すら感じている。

狂っているのは誰だ?
どこからどう考えたって、俺じゃあないはずだ。けれど、世間の大人は狂った奴らばかりだ。相対的に考えりゃあ、俺の方が狂人になる。俺が大人を嫌うのも、人間を嫌うのも、そりゃあ当たり前だろう。
けれど、そんな話をしたところで世の中は変わらない。今も狂った大人が世界を動かし、嫌がる子供に干からびた野菜の煮物を無理やり食べさせ、「ほら、美味しいでしょ?」と同意を求めている。

いずれにせよ、俺は社会から見れば狂人だ。こいつは疑いようもない。
東京で就活をしていた頃、未経験可で最低賃金のアルバイトですら一件たりとも採用されずに20も30も不採用にされ続けたくらいだ。あからさまに失礼な発言だとか、非常識な態度だとか、そういった行為がないように自分なりに必死に気を遣ってそれだ。
唯一採用されたのが肉体労働のアルバイトだったが、こいつは3日で辞めた。「実働6時間、日給14000円」と書かれていたから面接に行ってみたら、「日給14000円は慣れた人が一日に2現場回った場合の話で、普通は半分の7000円、試用期間は更に下がって6600円」とほざかれた。
それでも一応は採用されたし、職業体験のつもりで一応…と思って受諾したら、俺は東京の中心地に住んでいるのに初っ端から横浜の端っこの、片道2時間かかる現場を指定された。実質10時間拘束で6600円だ。そりゃ辞める。


そんな調子で、犯罪スレスレの行為でその日の糧を稼ぐようなことをして、この世のゴキブリとして生き続けた。
そして2023年6月24日、31歳になった。
もう、30代に入ってからも丸々一年が過ぎ、どう頑張っても「現代の若者たち」とは線を引かなければいけない年齢だ。
嫌いな給食を無理やり食わされた記憶は昨日のことのように思い出せるのに、実際には20年以上も経ってる。きっと、そんな憎しみの記憶を忘れたり、許せたりするようになる前に俺は死ぬだろう。
憎んだって1円にもならないし、何も得をしない。楽しいことをして、前を向いて生きていこう。そんな事を言うのは簡単だし、できるなら俺もそうしたい。だが、そう願った数秒後にはまた胸糞の悪い思い出が浮かんでくる。

俺はどうやって生きる?とにかく生きなきゃ死ぬ。
生きたいのか?生きてても楽しくはない。
死にたいのか?死ねば解放されるとは思う。けれど死ぬのは怖い。
まだ死にたくはないらしい。だから生きる。生きるためには金がいる。金を稼ぐには職がいる。
また嫌々と就活をして、どういうわけか30歳の春、人生で初めて正社員として真っ当な会社に採用された。
特別に条件が良いとは言わないが、新卒未満の経歴としてはマシな給料が出るし、毎日定時に帰れている。おそらく、「悪くない環境」だろう。今の俺にとっては奇跡みたいな幸運だった。

じゃあ、それで俺は幸せになったか?
なっていない。
遊ぶ時間も休む時間も十分だとは思えていない。と言っても、大して遊んで楽しいとも思わないし、どれだけ休んでも気持ちは軽くならないのだが。
とりあえず生活は可能になった。だが、仕事をしたらしたでプレッシャーを感じることもあるし、「時間が足りない」といつも思っている。
状況は好転したはずだが、大して変わった気がしない。今も昔も、「いつか楽になるのか?」と、泥の底を手探りで進むような人生を送っている。

少し前に、「ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム」を遊んだ。まあ楽しかったがストーリーについては思うところがあったので、あれこれ書き綴ったら意外と賛同者が居たようで、現時点で126、俺が書いた記事としては最大数のいいねが付いている。
自分の意見に賛同されるのは嬉しくはある。けれど、そもそも不満を書かずに居られるならその方が良いのは確かだ。多くに同意されたと喜ぶようなことでもない。俺の人生はそんな事ばかりだ。
もっと素直に物事を喜び、笑えるように生きられないのか。
生きられたら苦労してねえよ。

で、記事はともかくとしてこのゲームを遊んでいるときは楽しかった。楽しかったはずだ。だが、遊んでいる間はずっと「さっさと終わらせなければ」と思っていた。遊ぶ時間はあるはずだが、遊んでいる余裕がなかった。
社会人として、帰宅した後の時間や、土日に遊ばないならいつ遊ぶのか。遊ぶタイミングとして何も間違っていないし、間違ったことはしていない。
そもそも、ゲームで遊んでいなかったとして、他にどれだけ有意義なことをするのかと言えば、特に何もない。
遊んで、楽しんで、それで終わりでいいはずだ。だが、そんな感情にもならない。
一生遊んで暮らせる金があれば余裕ができるのか?いずれにせよ夢物語だ。

もう2年近く前の話になったが、かなり本気でバーチャルYouTuberを目指そうと思ったことがあった。自力で3Dモデリングを学んで、少なくとも個人としては十分に上質と言えるであろう美少女キャラクターのモデルを作成して、モーションの設定もして、あとは喋るだけという段階までは行った。
だが結局、どれだけボイストレーニングをしても、高額なボイスチェンジャーを使っても、納得の行く声が作れなくて諦めた。
完璧を求めなければ始めることはできただろうが、それで成功するとは思えないし、せめて失敗するとしても自分なりにできることは全てやったと確信できる所まではクオリティを高めないと死んでも死にきれない。だから頓挫した。

それからしばらく後、知り合いから「男性VTuberやれば?」と言われた。俺にはその発想が完全に抜け落ちていた。
男として生きたくはなかった。それでも、現実の醜い中年男性でもない、不完全な女性キャラクターでもない、強くてカッコいい男性キャラクターとしてインターネットの世界で生きられるなら、その方がマシな気はする。

時間を気にせずに遊びたければ、働かなくても生活できるだけの資産を作るか、遊んで金を貰えるようにするしかない。そんな事は分かってる。
モデルを用意するのには金か時間がかかる。とは言え、そこそこしっかりしたモデルを制作依頼するとしても、パソコン一台買うよりも安い程度の値段だ。
始めたとして、自分の声や喋り、あるいは企画が世間に評価されるかなんて分からない。もしかしたら誰かに酷評されたり、それすら無く誰の目にも留まらずに消えるかもしれない。とは言え、今更守るような名誉もない。
やろうと思えばできるくせに、「やってみたい」と言い続けて何もしないのが一番ダメだ、とはいつも思っている。試しに一度やってみて、それで失敗した方が、まだ建設的だ。
そうは思えども、金にせよ時間にせよ精神にせよ、失敗して失うのは怖い。

ゴキブリからようやく人間になったのに、人間としても気楽には生きられていない。
人間って何だろうな。俺には分からん。

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