【最新作云々㊲】古きエストニアの寒村での生活は窃盗と使い魔とともに... 狡猾さが至上命題の人間関係の中に在って一途な恋が美しくも残酷に雪原を木魂する幻想的モノクロ映画『ノベンバー』
結論から言おう!!・・・・・・こんにちは。
もう十数年前、新卒で入った会社がどうにも合わずに半年足らずで早々にリタイアして一旦実家に引き上げた際にとある故障で昼時に自転車屋に行った際に「ごめんね~今ご飯食べてるから~」とスルーされてからチェーン店じゃない自転車屋さんに茫漠たる不安を抱いていたものの、先日訪れた個人経営の自転車屋では非常に親切に対応いただいてホッとした、O次郎です。
今回は洋画の最新映画『ノベンバー』です。
19世紀のエストニアのとある貧しい寒村を舞台に、隣人間での窃盗が常態化した卑俗な処世術と若い男女の一方通行の悲恋のコントラストを鮮やかに描きつつ、死者や悪魔あるいは使い魔までビジュアルとして共存する幻想的なモノクロ映画。人間の美醜をシンプルなラブストーリーに集約させた構成はお伽噺的であり、峻厳な自然と陰影の深いキャラクターの相貌が浮世離れした世界観をより際立たせています。
きっかけとしてはこの夏に観た13世紀の中世ボヘミアを舞台にした宗教・階級闘争劇を題材としたチェコ映画『マルケータ・ラザロヴァー』の幕間に本作の予告編が流れており、その不穏ながらどうしようもなく美しい画面に魅入られて同じ渋谷シアターイメージフォーラムへ足を運んできた次第でございます。
※ちなみにそちらの感想はこの通りでござい。よかった併せてどうぞです。
その内容からしてまさしくミニシアター系というかカルト映画の部類ですが、映画ファンのみならず美術方面、歴史方面の志向の強い人にも突き刺さる点の多い劇薬のような一本かと思います。
その衝撃の片鱗なりとも伝えられればと思いますのでよろしく読んでいっていただければと。ネタバレ含んどりますので予めご容赦をば。
それでは・・・・・・・・・・・・"サイクル野郎"!!
Ⅰ. 作品概要とその特異な世界観の数々
※Wikiにページが存在しないので公式サイトでご容赦下さいませ。
- あらすじ(パンフレットより引用) -
エストニアのとある寒村。貧しい村人たちの最大の悩みは、寒くて暗い冬をどう乗り切るかだ。村人たちは“使い魔クラット”を使役し、隣人から物を盗み合いながら、必死になって生きている。
11月1日の「諸聖人の日(万霊節」。死者が蘇り、家に戻ってご馳走を食べ、貴重品が保管されているかを確認する。死んでもなお、欲深い村人たち。若くて美しい娘リーナも死者の一人である母親と束の間のひと時を過ごす。リーナは村の若者ハンスに恋をしているが、そんなことは露知らず、強欲な父親は豚のような農夫エンデルに、リーナとの結婚を約束してしまう。一方、ハンスはドイツ男爵の美しい娘に一目惚れ、リーナには歯牙にも掛けない。ハンスが別の娘に夢中なのを知ったリーナは村の老いぼれ魔女に相談をする。魔女はリーナに矢を渡し、これを娘の頭に刺せば脳みそがこぼれ出るだろうとほくそ笑むのだった。
ある夜、男爵の館の様子を伺っていたリーナは、館の屋根に夢遊病者のような状態で歩いている男爵の娘を発見する。リーナは屋根から落ちてしまいそうな娘を黙って見過ごすことはできずに助け出す。そんな時、ハンスは雪だるまのクラットを作り、3つのカシスを使い悪魔を騙そうとする。その策略に気づいた悪魔はクラットの魂をハンスにくれてやる代わりに、ハンスの魂を奪い取る。ハンスはクラットを使って男爵の娘を連れ出そうと試みる。だが、クラットは「人間を盗むことはできない、できるのは家畜と命を持たない物だけだ」と悲しげに答えるのみ。絶望したハンスは、すべての「愛」を変えてしまう「ある行動」に出るのだった──。
というわけで大筋としては若き少女と少年の交わらず一方通行な恋とそれに連なる狂気の行く末…という話なのですが、本作でまず目を引く点として、この世ならざる存在も悉く具体的なビジュアルを持って登場し、しかもそれらが人間とごく自然に共存していることが挙げられます。
人間が召し使いのように使役する使い魔クラットに、贄と交換でそのクラットを提供してくれる悪魔、11月1日の万礼節に現世に舞い戻る死者たち、そして果ては疫病まで人間ないしそれに準じた姿を伴って画面に現れます。一般的な邦画洋画であればそうした人ならざる存在の具体化は作品をチープ化させてしまうことも多いですが、本作ではそれらが違和感をもたらすどころか作品全体の異界感を見事に醸し出しており、それでいて互いにこすっからい騙し合いに終始しているところが滑稽でありブラックユーモアとも言えるでしょう。
ちなみに本作は東欧の様々な国の寓話的映画のオマージュが見て取れるとされていますが、上記の『マルケータ・ラザロヴァー』以外に、このクラットのストップモーションアニメーションの造形についてはチェコ・イギリス合作のダークファンタジー映画『オテサーネク 妄想の子供』(2000)がそのオマージュ元とされているようです。
※そちらについても感想記事を書いていますのでよろしければ。こちらの作品では有機的なおぞましい怪物造形がストップモーションアニメーションで表現されており、本作とは真逆の粘液質な恐怖です。
そして彼らを使役する村人たちですが、不毛の大地ゆえのある種の帰結なのか衣食住を自らの手で満たす、即ち"無"から"有"を生み出す労働を端から放棄して有るところから引っ張ってくる窃盗を厭わず旨とすらしています。
ある者は村の領主であるドイツ男爵の寝たきりの婦人のドレスや貴金属を少しずつせしめ、そのおこぼれに物々交換で預かるために貧しい村の人々が他所同士で盗みを働いたり・・・。盗みが罪業であるという認識は有るものの"持っている者から持たざる自分がせしめても何の問題も無い"という開き直ったロジックが蔓延しており、隣人同士は盗み盗まれてもあくまで関係はドライです。
そしてそれがゆえに相手を騙すことにも禁忌の意識が無く、むしろ巧妙に騙すことを生活の知恵として誇っているフシすら有ります。クラットのための「魂」を買うためには悪魔を呼び出して取引をする必要が有り、悪魔は契約のために3滴の血を要求しますが、村人たちはそれすら勿体無いとカシスの実を血の代わりに使い悪魔をも騙します。超自然的な存在との交流に際してすら身銭を切ることを渋る姿は罰当たりと映りますが、人間間はもとより異種族間に於いても"狡猾さ"がそのパワーバランスを測る唯一の指標になっている点で皮肉ながらも至高の平等が担保されたユートピアと言えるかもしれません。
そのようなコミュニティーの中では神も仏もあったものではないはずなのですが、どういう理屈か、キリスト教は根付いています。しかしやはりというか、祈りは捧げど各人が口内に入れた聖餅すら再利用する始末…。清貧とは真反対の略奪と奸計が常態化し勤勉を厭う社会の中でただただ罪の意識から逃れるためだけに宗教が利用されており、まるで宗教が逆説的に彼らの人間的醜悪さの象徴のように描写されているところが露悪的というか挑戦的なところでしょう。
主人公の村娘リーナは同じ村の若者ハンスに、そのハンスはドイツ男爵の娘にそれぞれ片想いしています。己の食い扶持と宝飾に熱心な他の村人たちからして得るものの無い"恋愛"は見向きもされませんが、それゆえにこの二人が作中貴重な血の通った人間に見えるのです。
特にリーナはこのままでは人身売買の如く欲望丸出しのずんぐりむっくり農夫エンデルと結婚させられそうなため、なおのこと必死です。
物語の定石からすると"リーナとハンスは相思相愛なものの親の金銭的なメリットのために泣く泣くエンデルとの結婚を余儀なくされる"となろうものですが、登場人物の私利私欲のみならず恋愛感情まで一貫して一方通行なのはなんとも徹底しています。
恋敵を屠る決心は付けられないまま館を見張るリーナでしたが、館の屋根に夢遊病者のような状態で歩いている男爵の娘を発見し、屋根から落ちてしまいそうな娘を黙って見過ごすことはできずに助け出します。
作中唯一といっていいぐらいの人間の善意を感じさせる良いシーンのはずなのですが、リーナの惨めさばかりが際立ってしまうのはどうしたことでしょう。
それとほぼ時を同じくしてハンスも絶望の淵に立たされます。クラットで男爵の娘を奪取しようとした企みに失敗したばかりか、悪魔に出し抜かれて自らの魂を奪われてしまうのです。
悪魔に騙されたことは不憫ではありますが、それ以上に男爵の娘への恋の成就という損得を離れた想いに際しても身銭を切ることを渋ってしまったハンスの打算が透けて見えることがこの上なく悲しく、彼もその実、愛に準じきれない"村人"に過ぎなかったようです。
男爵の娘を我が下に連れ出そうとするハンスに対しクラットは「人間を盗むことはできない、できるのは家畜と命を持たない物だけだ」と悲しげに答えるのみですが、とどのつまり悪魔との契約で得られるのは物質的利得のみであり、悪魔ですら愛の領域には踏み込みえない、ということでしょう。
つくづく愛に準じきれなかったハンスが悲しいところです。
そして他方のリーナは他所からの盗みによって得た宝飾品との交換で男爵の娘のドレスを手に入れ、彼女に成り済ましてハンスを涅槃へと誘います。
Ⅱ. まとめに
というわけで今回はエストニア産のフィルムノワール的最新映画『ノベンバー』について語りました。
人間同士だけでなく悪魔や疾病とも騙し合う究極のコンゲーム映画でもあるのですが、モノクロの静謐な画面と瀟洒な演出が相俟って脂っこさは皆無な不思議な味わいでした。
それにしても人外の者とも対等に渡り合うデタラメな生命力を蓄えた村人たちのビジュアルは大した説得力で、非俳優の土着の人々を大量にキャスティングしたというだけあって土地に根付いた民の凄みを感じさせます。
ともあれ、加工されていない自然の厳かさと、聖者も亡者も物欲に爛々と色めき立つ魑魅魍魎ぶりが同居した噓のようなバランスの一本でした。
こうした作風は狙って出来るものではなく、やはり土地土地の歴史と哲学ゆえのものだと思います。
今回はこのへんにて。
それでは・・・・・・どうぞよしなに。
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