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【最新作云々㊽】誰もが人生を諦めそうな凄絶な無間地獄の先には何があるのか、そもそも何ゆえその地獄に落ちたのか... それでも"生きてこそ"と言えるかを問う映画『光復』

 結論から言おう!!・・・・・・あけましておめでとうございます。( ´艸`)
 この大晦日、オーチャードホールで行われたジルベスターコンサートに行ってきたという知人が居ますが、"ジルベスター"と聞くとつい「エイドリアァァ~ンッ!!」とか「何も終わっちゃいない!!」とか叫ぶ方を思い出しちゃう、O次郎です。

※こちらが"Silvester"であちらが"Sylvester"ですからおそらく語源も違うよね?
ちなみに"ニューイヤークラシック"という括りで言えば中学生の頃、毎年テレビ放映される"ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート"を観てその感想文を書く、というのが音楽の科目の冬休み課題だったのを思い出します。
ちなみにその知人にも聞きましたが、数年前のジルベスターコンサートのカウントダウンで失敗があったとかなんとか・・・ヒヤヒヤ。(゜Д゜)

 今回は最新の邦画『光復』です。
 若い頃にUターンした中年に差し掛かったとある女性が、生活保護を受けながら認知症の進む母親の介護をして一目を避けてひっそりと暮らす。先の見えない日々に静かに追い詰められていく主人公に幼馴染みの学生時代のボーイフレンドが甲斐甲斐しくサポートしてくれるが果たして・・・というお話。
 物語の滑り出しは地方で其処彼処で発生して働く世代を底辺へ追い詰める"介護カプセル"の厳しい現実を切り取った社会派作品かと思いましたが、そこからは"眼を背けたくなる"という言葉も陳腐に思えるほどの現世のあらゆる地獄が展開され、主人公が世間のあらゆる悪意に食い物にされていきます。
 それでも生きることを止めなかった先に何があるのか、何故そのような受難に見舞われるに到ったのか…否応無しに観る者に人間存在の根源を問うような、自主映画の極北を往く激烈な一本です。
 新年一本目に書くにはあまりに刺激が強過ぎる内容で、俗に言う"胸糞映画"が苦手な方には決してお勧めできませんが、僕のように口コミで本作を知って興味を持った方々や映画に娯楽以外のものを求める覚悟をお持ちの方々、参考までに感想の一本として読んでいっていただければ之幸いでございます。結末までのネタバレ含みますのでご容赦をば。
 それでは・・・・・・・・・・・・・"勝利への脱出"!!

第二次世界大戦の最中、ドイツの捕虜となっていた連合軍兵士とドイツ代表との間で行われる
サッカーの国際試合と、その背後で進められる脱走計画がテーマ。
"圧倒的不利な国際試合+脱獄"というプロットからして
T-34 レジェンド・オブ・ウォー』を彷彿とさせるところがあるかも。
本作は81年公開で『ロッキー』以後かつ『ランボー』以前の時期のポストキャリア模索期の
スタちゃんのチャレンジ精神と焦燥がそのまま顕れたような佇まいながら
監督が巨匠ジョン・ヒューストンなので作品そのものは至って重厚。
ただ、いくらキーパーとはいってもあんだけ筋骨隆々なサッカー選手ってアリなの…?



Ⅰ. 作品概要

※Wikiのページが存在しないため、公式ページをご参照ください。

(あらすじ抜粋)
婚期もキャリアも逃し、生きる意味も失いかけた子供たち、そんな彼らに幸せはいつ訪れるのか―――。大島圭子、42歳。27歳の時、両親の介護のため東京の仕事を辞めて長野に戻った彼女は、生活保護を受けながら寝たきりの父親を看取り、今は認知症の母親、安江と2人で人目を避けて暮らしている。ある日、母親の徘徊騒動をきっかけに、高校の同級生だった横山賢治と再会する圭子。賢治は圭子の現在の生活を知り、手を差し伸べようと仕事の合間を縫って大島家に通うようになる。それまでは暗く、表情のない圭子だったが、次第に明るさを取り戻していき、年相応の女性として肉体と精神に火が灯り始めた。しかし、そんな平穏な圭子の日常に暗雲が立ち込める。母が急死したのだ。警察は検死の結果、インシュリンの過剰摂取による殺人事件と断定し、捜査に乗り出す。警察からの取り調べを受ける圭子。その人生は不気味な音を立てて崩れ始めていく―――。

 自主映画出身の深川栄洋監督による渾身の自主企画作品を奥様の宮澤美保さん主演にて映画化。
 長野県内でロケを行い、長野県内で活動する役者やエキストラをキャストに採用することで地域振興に寄与しつつ、普段映像作品でお目にかかる著名俳優が登場しないことでより現実との地続き感・没入感が強まり、それに相反するように苛烈過ぎる不幸の満漢全席が主人公を間発入れず襲い、物語の振れ幅の許容量の域値が下げられたところに劇物を連続投入されるので観ているこちらは処理が追い付かず圧倒されるばかり…。
 その「理不尽」という一言ではあまりに惨過ぎる主人公の流離譚に、"一体何が彼女をそのような目に遭わせたのか、それでも生きることを止めなかったのは何故なのか"という重い宿題を持ち帰ることになります。
 パンフレットによると主演の宮澤さんは、"スタッフとしての役割も兼務していてそちらが非常に忙しかったので、結果として演じる役の強烈さに極限まで追い込まれずに済んだ"とのことでそのバイタリティーに頭が下がります。
 以前何かのラジオ番組で、"キー局のアナウンサーは周囲にスタッフが沢山居るのでアナウンスの仕事のみに専念出来るがそのぶん周囲との連携の向上が無い。反面、地方局のアナウンサーは慢性的な人手不足ゆえにDJから編集まで裏方仕事もすべてこなさざるを得ないがゆえに複合的な完パケ技術が身に付く"というような話を耳にしたことがありますが、本作で言うと撮られる側が撮る側のスタンスにも立つことでより理想的な画作りに繋がったのかもしれません。
 ただ、上記のラジオの例で言うと、キー局のアナウンサーの収入と地方局のアナのそれとはいったい何十倍違うんだということを考えるとなんとも暗澹たるところですが、映画に鑑みるとこうした自主映画作品こそ優先的に劇場に足を運んでよくよく味わって他人に広め、シネコンに掛かるような作品よりも鑑賞のプライオリティーを上げておくことがせめてもの観客としての貢献できることなのかも、と思ったり。
 脱線気味になってきましたので以下、物語の推移についてです。


Ⅱ. どこまでも続く無間地獄の果てに…

 冒頭からして既に不穏で、まるで赤子さながらに自由奔放な認知症の母親に四六時中振り回されてフラストレーションが溜まりに溜まった主人公が母親に馬乗りになって怒鳴りつけ、自己嫌悪して倒れ込む…
 後に明らかになりますが主人公は都会でキャリアを積んでいる道半ばで父親の介護のためにその生活を捨てて帰京し、その父親を看取って以降は今度はとばかりに認知症を発症した母親の介護に移行した模様。
 父親の存命時は母親は未だ元気だったようであり、介護離職するにしてはやや早過ぎるように思えます。頭もはっきりしていた頃の母親もおそらく娘の未来を想って「お父さんのことは私にまかせて貴女は貴女のやりたいことをやりなさい」と諫めたことでしょう。
 しかし彼女は老いた両親に寄り添うことを選びます。弟さんとの会話からすると母親の認知症発症時には特養に入居させる選択肢も有ったようですが、その際もあくまで主人公は自分で世話をすることを選んだようです。
 それだけ彼女の親への愛が深かったということでしょうし、"自らのキャリアを捨ててまで選んだ道だからなおさらやり遂げねば"という向きも無くは無かったでしょう。しかしながら不幸にして介護それも認知症の方へのそれは此方からの愛情が一方通行であり、どれだけ愛が深かろうと精神的にも肉体的にもしんどいものの筈です。
 いきなりの結論にはなりますが、主人公圭子はあまりに慈愛が深く、そして同時に世の遍く難事に対して自らの心身を優先させてそれを拒絶する術を持たなかったことが一番の問題であり、悲劇の原因だったように思います。決まった寝床やオムツの着用を拒否し、時に自らの排泄物を口にまでしていた認知症の母にも懸命に理解を示そうとするその姿。
 彼女にとっては母親の介護が今現在の自分の存在理由であり生き甲斐であった反面、周囲からは容易に分かるほど肉体的精神的に追い詰められているという絶望的な乖離…。その幸せと不幸の不可分の象徴であった介護生活が外部の手によって強制的に終了させられた時、圭子が生きる指針を失って自らの生活を最優先させることも他人を本当の意味で大事にすることも出来ずただただ転落の一途を辿っていったのは後にして思えばむべなるかな、というところです。

時計仕掛けのオレンジ
暴力やセックスなどの欲望の限りを尽くした若者が収監され、
治療プログラムを受けた結果、彼は暴力に対して無防備となり、
それに抗うことを選択する能力のない存在となる。

本作では母親殺害の容疑で収監された圭子の面会に訪れた弟が「俺の人生台無しにしやがって!!」と詰め寄り、それに対してただただ涙を流して平身低頭謝る彼女の姿が。
圭子が自らを見舞う不幸の数々に対し、特に早い段階の何処かででも自分の身の安全を
最優先にして世間に強く抗えていればあるいは違う未来があったのではないでしょうか。

 そして圭子にとってのオム・ファータルたる横山賢治の存在。
 学生時代の圭子のボーイフレンドだったものの帰郷後の彼女が介護第一だったために出会うことはありませんでしたが、中学の同窓会のお知らせが届いたことを切っ掛けに好奇心から彼の勤めるドラッグストアを訪れます。
 彼は既に妻子も家のローンも抱えた働き盛りの家庭人ながら、圭子のやつれた姿と壮絶な介護生活の片鱗を目の当たりにして生来の面倒見の良さから仕事の合間を縫って彼女の介護生活を助け、やがて男女の関係に・・・。
 この時点からして圭子の優柔不断さが既に顕れており、ただただ彼の求めるままに関係を深めていってしまいます。"貴方には家庭があるのだから"と、あるいは"私との関係を望むならまず今の家庭を捨てて"と、相手もしくは自分の都合を第一にした判断を下して相手にそれを突きつける覚悟があればおそらくはその後の悲劇を食い止めることができたかもしれません。
 そして対する賢治は自分あるいは相手を第一に考えられる"普通の人"であり、苦しみから解き放たれた圭子と心からの愛を交歓するべく彼女の重荷たる母親をインシュリンの過剰摂取で殺めてしまうのです・・・母親が彼女の不幸であると同時に幸せでもあることは理解出来ないままに。

その後の言動から察するに、賢治はどこまでも純粋な人だったのでしょうか。
今の家族を愛していたのも、圭子を愛していたのも本当でしょうし、
なればこそその時々で彼が優先させた選択が結果的に圭子を追い詰めることになってしまいます。

 身に覚えのない罪で為す術無く収監された圭子ですが、母親を失ったショックに加えて真犯人と思しき賢治の犯行と告発する勇気も無く、過酷な取り調べや上記のような弟からの身勝手な糾弾にただただ絶えます。
 それもおそらくは良心の呵責に耐えかね尚且つ圭子の無実の収監生活を憂いた賢治の自白によって終わりを告げるのですが、圭子としては自らの身の潔白を主張する覚悟も自分と愛を交わした賢治の罪を被る覚悟も無いままに再び世間に放り出されてしまったわけです。

それはさながら、身を守る術を知らない幼子の如くに…

  そしてその不覚悟が作中最大の惨劇を生みます。のどかな田舎町での痴情の縺れによる殺人を面白可笑しく報道するマスコミが圭子の自宅を取り囲んでおり、その様子を覗う彼女を地元のチンピラ連中が暗がりで拉致してバンで連れ去ってしまいます。
 それから走行する道中でのカメラ撮影しながらの集団暴行を仕掛けられ、散々弄ばれた末に山道の脇の林に投げ捨てられてなんとか道路まで這いずって助けを求めたところで通りがかりのトラックに轢かれてしまう・・・・・

この一連の地獄のような受難が作中たったの5分ほどで展開され、自分なんかはあまりの急場に「うわぁ・・・」と劇場内で思わず声が漏れてしまいました。


 そして目覚めたのは病院の病室。全身打撲骨折で数か月の車椅子生活を余儀なくされただけでなく、なんと轢かれた際のショックで視神経が害されて失明してしまいます
 ここまででもう常人の神経であれば自ら命を絶ってしまいそうな地獄ですが、現実は容赦無く波状攻撃を仕掛けてきます。とある法律事務所の所員が病室を訪れてきて、「収監されている横山賢治さんの元奥様があなたを訴えておられます。ご自宅と土地を清算して慰謝料に充てられるのがせめてもの相手への誠意ではないでしょうか」と。そしてまたとある弁護士が「賢治さんの罪を軽減させられるのは貴女だけなんです。お母様が生前『死にたい』と漏らされていたようなことは有りませんでしたか」と。
 賢治の弁護の場で彼との安らぎと愛の日々を暴力的に証言させられた末、母親が自らの死を望んでいたかどうかについては「わかりません…」と答えてしまいます。
 あまりにも正直であり、真実に誠実であるがゆえに自分も他人も何も守れないのが観ていて辛過ぎます。そして結果としては、彼女は賢治の誠意にも背いて彼の力にはなれず、両親と慣れ親しんだ実家も手放すことになります。まるで弱り目に祟り目というか、弱ったのをいいことにとことんまでしゃぶりつくしてくる餓鬼地獄のようです。

視力を失ったことで白杖を突きながら我が家を探して覚束ない足取りで歩く。
彼女のそれまでの人生遍歴そのものです。

 その実家を手放す経緯も実に凄惨で残酷なものであり、白杖を突いて近所の人の介助を得ながらなんとか実家に辿り着きますが、悪意ある好奇心の他人の悪戯で窓から石を投げつけられ、神経をすり減らした圭子は半狂乱になって押し入れに閉じこもります…。

そして二度目の大きな転機となる地域の民生委員のおばちゃんとの出会い。
「もうヤダ、死にたい!」と喚きながら彼女の持参したファストフードを貪る姿に
「死にたい人が食べる勢いじゃないねー」とほほ笑む姿はどこか菩薩のような雰囲気も。
慈悲深い人間愛・弱者救済というよりあくまでおばちゃんとしては仕事の一貫だったでしょうが、
本当の蜘蛛の糸とは案外そういうものなのかも。

 そしてその民生委員の勧めで遂に辿り着いたのが山奥にある禅寺での生活
 世間と隔絶され、社会生活から切り離される代わりに俗世の害意からも逃れられる聖域の中で、圭子は口のきけない寺男の介助を得ながら、やがて住職から仏法の教えに感慨を受けてその道に入っていきます。
 それまでの彼女のあまりにも凄惨な受難はひとえに彼女の強烈な"我"が無かったゆえに起こったことであり、そこからして彼女は"無我"の境地の素養があったということでしょう。
 仏門に入った彼女は剃髪(どうやら演者の宮澤さんは撮影のために本当に坊主頭にされたようです!)のうえ、盲目ながら読経・写経も苦労しつつ体得したようです(視覚情報が無ければ物を覚えるのは相当困難なハズです)。

 そして時は流れて十年ほど後、寺男と一緒に麓の町までお使いに行っていた圭子が寺へ戻ってきますが、彼女に駆け寄る少女の姿が…。察するにその後生まれた圭子の娘なのでしょうが、その種が例の集団暴行のチンピラたちによるものか或いは賢治のものか、それは作中では特に明示されておらず重要な事ではないのでしょう。
 しかしながら罪を償って出所してきた賢治が圭子の居所を求めて寺を訪ねてきます。そしてお使いから戻ってきた彼女を見つけて微笑んで駆け寄ろうとした刹那、その賢治を住職がその背後からナタ(パッと見では鉄扇に見えましたがどうやら鉈らしく)を一振りして賢治を殺めてしまいました…
 そのただならぬ物騒な物音に盲目の圭子は一瞬戸惑いますが、寺男が咄嗟に機転を利かせて"住職が転んだ"と指文字で伝えて真実を秘します。
 そして圭子からは誰のものとも分からぬ彼の遺体を埋めた墓の前で経を上げながらのエンドロール・・・。

 とどのつまり賢治は圭子にとって"邪悪"であると、少なくとも住職からは喝破されたということでしょうか。
 彼は辛い介護生活から圭子を解放しつつ人間らしい喜びを思い出させてくれた人ではありますが、一方で彼女の生命線であった母親を殺めてしまった仇敵でもあり、自分にとって愛憎相半ばするその存在は邪そのものです。
 "無私"の世界に帰依している今の彼女にとり彼の存在は強制的に精神的還俗を余儀無くさせる劇薬に等しく、拒絶する術を持たない彼女を守るには住職は彼を"調伏"するしかなかったのでしょう。

なればこそ最終盤のこのおぞましいスプラッターシーンは
見るも無残ながら"解放""解脱"の感動的な瞬間と捉えるべきなのでしょう。

 そして余談ながら、終盤の住職による仏教の講釈があまりに精緻で長々としていたため、監督ご自身が仏門関係を相当研究されたその道のご専門か、あるいは仏教方面の関係からの多大の出資を得ているのかと勘繰ってしまいましたがそうではなかったようで。
 あらためて商業映画に対応されてきた当監督がその内容の煩悶・逡巡をマグマのように滾らせてきたのかなと息を吞む思いでした。


Ⅲ. 終わりに

 というわけで今回は最新の邦画『光復』について語りました。
 本作の主人公のあまりにも無垢な人間性を見るにつけて思い出した作品がもう一本あります。

※いわゆる"鬱漫画""胸糞漫画"ジャンルの比類なき代表作。
数年前、出先のとある住宅街の民家の軒先に"ご自由にお持ちください"の但し書きとともに置かれていた古本ラインナップの中に本作が…。
既に内容を知っている身としては「いやいや、どんだけ悪趣味なおすそわけだよ・・・」と思ったわけで。(´;δ;`)

 『無限の住人』で有名な沙村広明先生の短編作品。
 孤児の少女たちが裕福なブラッドハーレー卿に引き取られたものの、実は卿に引き取られた少女たちは凶悪犯専用の収容所に送られ、その囚人たちのガス抜き用の慰みものに・・・という如何にも青年誌然とした刺激的な内容ですが、作中で凄惨な悲運に見舞われる少女たちは世を恨むのではなく「きっと自分たちの精神が清らかでなかったから」と諦めいわば罰として受け容れてしまう姿は本作にも通ずることろがあるかもしれません。
 普段、ビジネスの分野に於いては自分の側の利益しか考えないクライアントに辟易することが間々有りますが、こと私生活の分野に於いては特に、周囲と対立してでも自分の身の安全と直感を最優先にする本能的防衛本能を忘れてはいけないのかもしれません。
 "自分にとって真に何が害で何が善か"を自分自身がわかっていなければ善意の他人からも手を差し伸べられず、況や悪人からは・・・。
 
 今回はこのへんにて。
 それでは・・・・・・どうぞよしなに。




物語序盤に主人公のもとを訪れた市役所役員が何の気無しに放った
"生きていれば必ず良いことがありますよ"との言葉。
僕にはあまりにも皮肉に聞こえてしましましたが、果たしてあなたには・・・
(゜Д゜)

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