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【最新作云々㉓】記憶を失っていく生の中で"忘れられない記憶"と"忘れたくない記憶"こそがその人を形作る... 新たな命を迎える青年が老境の母の生と性に向き合う映画『百花』

 結論から言おう!!・・・・・・・こんにちは。(o´・ω・o)σ
 本日9/12は"とっとり県民の日"らしいですが、これまでの人生の中で当事者として県民の日を一度も味わったことの無い兵庫県出身・東京都在住、O次郎です。

上記の鳥取は公共施設の無料化や割引のみのようですが、"千葉県民の日"なんかは
公立学校が休みだったりするようで、大学進学で上京して千葉出身の友人に
それを聞いた時には大層驚いたものでした。1984年制定とのことですが、
他に全く祝日が無くてありがたみの大きい6月に上手いこと独自の休みを設定したあたり、
県政側も策士よのう・・・(´・ω・`)


 今回は邦画の最新映画『百花』です。
 菅田将暉さん、原田美枝子さん、そして長澤まさみさんというスターキャストを擁して繰り広げられる親子の愛憎劇・・・原作小説も手掛けられている川村元気監督の長編映画初監督作品です。
 プロデューサーや絵本作家としても活躍されているだけあって、登場人物とテーマを極限まで集約した観客に深く染み入り易い構成を取りつつも、過去と現在が瞬時に入れ替わる幻惑的で人を食ったような演出に作家としての自我や初期衝動も注ぎ込み、全体として話題性の高さのみに終わらないエネルギーを孕んだ作品に仕上がっていたように思います。
 物語の解釈を追いつつ上記メイン3キャストの演技について言及しておりますので、鑑賞済みの方もこれから観ようかなという方も読んでいっていただければ之幸いでございます。ネタバレ含みますのでその点ご容赦をば。
 それでは・・・・・・・・・・・・・・・"サラダ記念日"!!

男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日
恋敵の存在無しに自らの分を弁えて身を引く姿がなんとも切ない…。
余談ながら私の田舎にもいわゆるシャディサラダ館が在ったのですが、
アレもサラダ記念日が名前の由縁でしょうか・・・?


Ⅰ. 作品概要

 作中では父親は早くに死別したのかそれとも離婚したのか明言はされていませんでしたが、シングルマザーの母百合子に育てられた主人公の泉。
 終始穏やかな初老の母親と優しそうな息子ですが同居はしておらず、泉は大晦日に母の家を訪れても泊まろうとはせず、母の作ってくれた夕飯もそこそこに急な仕事だと嘘を吐いて早々に帰ろうとし、百合子も戸惑いながらもそれを引き留めようとはしません。泉の妻の香織からも後に指摘されていますが、お互いに蟠りが有ることがわかります。
 中盤に明らかになることなので先んじますが、泉が小学生の頃に一年間、百合子が家を出て不倫に走っていた時期があり、その間は彼は祖母に面倒を見てもらっていました
 直接描写されてはいないとはいえ、一時は家庭を捨てたとはいえ泉の元に戻ってきた百合子が心底から彼に謝罪したことは想像に難くないですが、それで元の二人に戻れたわけではなく、その後の現在に至るまでの百合子から泉への罪の意識と、泉から百合子への罰の意識が織り成す親子ひいては人の姿を、それぞれの立場からじっくり描いた物語となっています。

画面に出てくる尺こそ然程ではありませんが、
泉のパートナーとして、そして来るべき母親として
二人の気持ちの橋渡しをする香織役の長澤まさみさんは
他作品の快活なイメージから外れた慎ましやかな印象です。



Ⅱ. "記憶がその人を形作る"ということ

認知症によって記憶を失っていく母に折に触れて幾度も抱きしめられる息子。
母から息子への失われぬ愛情を感じつつも、過去の敬経緯からその抱擁の中に潜む
かつての不倫相手への恋情も感じ取ってしまい
、愛と失望の泥濘に嵌り込んでしまいます。

 物語冒頭、百合子は認知症を発症し始め、自身もそれを認識したうえでこれからの生活を考えるようになります。もともと請け負う人数を減らしていたピアノ教室を閉めたり、泉の手配した特養生活に進んで応じたり…。
 そんな生活の中でも、薄れゆく記憶の中から努めて息子である泉との思い出は自分の中に留めようとします。物語序盤からしきりにキーワードとして出てくる"半分の花火が観たい"という望みがその最たるものですが、それ以外にも泉の幼少期の授業参観の思い出を頼りに夜の小学校に忍び込んでしまったり、泉と遊んだ公園に足を運んだりと、傍から見ると迷惑この上ない徘徊行為ながらその実、本人にとっては"残したい記憶"を自分に繋ぎ留める、自分が自分であり続けるための行為であることが伝わってきます。
 それはもちろん、これまでの人生の息子への愛であったりそれを成し遂げた自分への自負でもあったりするでしょうが、彼女の場合は愛する人との(それが世間的にはどうしても"不倫"というレッテルにはなってしまうのですが)愛の思い出が他の思い出に勝ってしまうほどに強く、それがゆえに意識的な親子愛の備忘努力によって無意識的な性愛の記憶を上回らせる必要が有ったのでしょう。

百合子の不倫相手だった大学教授の浅葉(演:永瀬正敏さん)
薄れゆく記憶の中でも彼との一年間の愛の思い出は意識せずとも忘れ難く、
百合子の中に後悔も薄く、泉との思い出に重なるところも多いため、
そのことが彼女を一層苦しめることになります。

 他の映画であれば若い頃の演技は年の若い別の女優さんに演じてもらうこともごく普通でしょうが、本作では泉を置いて恋人と神戸で一年間を過ごした若き愛の日々も原田美枝子さんが演じられています
 その媚態も厭わぬ変わらぬ美しさもまずもって凄いですが、一連の時間を彼女が演じたことによって、百合子という一人の女性の生涯がより強烈に意識されるようになったと思います。
 "一時の気の迷い"ないし"女としての時間が無くて寂しかった"というような男性目線からの短絡的な規定はさて置き、時代的にも血縁・隣人以外のサポートは得辛かったでしょうし、まだ老け込むには早すぎる中で"母親"という一種類の既定のタグ付けをしてその後の自分の人生を決め込むのは過酷過ぎたことは察せられます。そんななかで社会的なしがらみや責任を抜きにして"一人の女性"として生きた一年間は、たとえ周囲からあまつさえ実の息子から誹りを受けるような質のものであったとしても当人には掛け替えのない思い出であり記憶であったのであり、そのことは"後悔していない"という作中での彼女の独白からも明らかです。そしてその一年間があったからこそ、そこから現在までの泉との人生があったとも言えるでしょう。
 それがゆえに今の息子との決定的な不和を生み出した記憶が自分の中で根強いものであることを認め、それも自分を形成する要素であると受け容れつつ、これからの潰えるまでの人生を生きていくためにもう一つの自分の要素である息子との思い出を意識的に残そうとした、ということでしょう。

 しかしながらなんとも悲痛なことに、"裏切られた"息子の側からはそれが容易に受け容れられません。息子の側からすると、自分を裏切った記憶こそ忘れて欲しくないし、自分との過去の楽しい思い出を強調されても白々しいのです
 例えば非常に厳しかった自分の父親が年老いたとします。身体が衰えてすっかり弱々しくなった彼を前にしたとして、彼が自分に「よく○○に連れて行った時に本当に嬉しそうにしてたな」「△△の時はありがとう」みたいな楽しい思い出話をするより、「~~の頃は毎日イライラしてたのでお前に八つ当たりして本当に申し訳なかった」「『お前のためだ』と言いつつ、自分が親から受けた押し付けをお前にもそのままやってしまった。すまなかった」と心底詫び続けて欲しいのが被害者(正確には"被害者"という意識から抜け出せていない人)の紛れも無い本心でしょう。
 ですから、百合子の側は泉への謝意から彼との思い出を必死に思い出し繋ぎ留めようとするのですが、泉の側からすると彼女が過去の罪を反省せずそこから逃れようとしているように映ってしまうのです。

彼女の望む"半分の花火"を求めて花火大会へ。
泉にとっては"親孝行"の行動が百合子にとっては泉への"贖罪"の
気持ちからの提案だというのがまた…。

 そしてその絶望的な堂々巡りを繰り返す二人の関係に天啓をもたらすのが泉の妻の香織です。泉のパートナーとしてその煩悶に理解を示しながら、百合子が不意に漏らした"泉には一生赦してもらえないでしょうね"という言葉に横たわる愛を慮り、敢えて泉に"いつまでお母さんに謝らせるの?"と直截に覚悟と自立を問います。

二人に近い距離に居ながらそのどちらの立場にも同情しきれない
香織の立場も辛いもので・・・。

 また、百合子が浅葉の元から泉の元へ戻った経緯も悲痛なもので、浅葉の単身赴任する神戸のアパートで阪神淡路大震災に罹災したことにより、百合子は家庭に戻ることを決意したことが示唆されています
 浅葉の元に居た時には残してきた泉のことを、そして泉の元に戻った後は秘かに途切れた浅葉との縁を胸に秘めていたのでしょう。
 男女問わず、それが人間の心理の紛れも無いところだと思います。


 また本作では"モノ"が記憶を象徴する重要なファクターとなっており、各場面に形を変えて幾度も登場します。
 "たべっこどうぶつ"は幼少期からの泉と百合子との思い出の品として。
 "卵"は百合子の得意料理ゆえに幼少期から泉にとっての母の味として、そして想い人の浅葉に振舞った愛妻料理として。
 そして"ピアノ"は百合子から泉への、親から子へ伝えるおくりものとして、同時に百合子と浅葉を結び付けた愛の記憶として。

 "たべっこどうぶつ"を子どものように泉と食べる年老いた百合子は何の憂いも無く笑みを見せますが、"卵"を手にした百合子は浅葉の幻影を追い駆け、"ピアノ"を前にする彼女は昔を懐かしむと同時にどこか怯えているようにも見えます。

物語の最期に特養の発表会で、ぎこちなくもゆっくりと
息子と、そして想い人との思い出のグノーのアヴェ・マリア
奏でる百合子だが・・・

 最後にこれまでの人生を一つ一つ思い出すようにピアノを奏で、それを泉は見守っています。
 弾き終えて拍手を浴び、立ち上がってこちらを向いた百合子の笑顔は、慈愛に満ちているようにも純愛を帯びているようにも見えます
 過去に周囲に迷惑を掛けながらも、それも今の自分を構成する一部として後悔せず、今の自分を支えてくれる息子とのこれまでの思い出を必死に繋ぎ留めようとして来た百合子ですが、より強く彼女という存在を規定していたのは果たしてどの経験だったのでしょうか。

泉のレコード会社での一幕。
レセプションでの目玉の出し物としてAI歌手が出品されますが、
"あらゆる有名歌手を学習させた結果、誰でもなくなってしまった"というオチに。
これはいささか示唆的過ぎるというか、TV的解り易さとして浮いてしまったように思います。



Ⅲ. まとめ

 というわけで今回は最新公開映画『百花』について語ってみました。
 "女として母として"みたいな言葉で片づけてしまうのはどうにも陳腐な気がしてしまい、どれだけ沢山覚えてどれだけ沢山忘れていっても、その中からどれを残そうとするかあるいはどれが忘れ得ず残ってしまうのか、それが各人の生き方であり人生なのだと思います。

泉と香織は、生まれてきた息子のひなたに対し、
もし周囲や彼から誹りを受けるような行動に走って、後にそれを深く反省するとしても、
百合子のようにそれも私なのだと断言できる人間に、親になれるのでしょうか。

 観た人によって感想に相応の開きがある作品のようですので、もし"自分はこう観た"といったご意見ございましたらコメントいただければ恐悦至極にございます。
 
 今回はこのへんにて。
 それでは・・・・・・どうぞよしなに。




AIアーティストの"KOE"。
クセが凄すぎるならぬクセが無さすぎるってヤツか。(・・)


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