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呼んでくれる人がいるから作りに行く

つい先日――3月13日まで愛知県美術館で開催中だった「ミニマル/コンセプチュアル」展は、会期終了直前に駆け込み、なんとか内容を頭に詰め込むことのできた展覧会だった。

コンセプチュアル・アートやミニマル・アートと呼ばれる分野の作品は、最初にアイデアありきで、作品を見て感じることと同じくらい、なぜそれが作られたのかを知ることが重要になる。

ミニマル・アートというのは、1960年代のアメリカで生まれた美術の潮流のひとつで、あえて工業製品や既製品を使い、展示も指示書に基づいて職人にまかせるなど、作家の個性をできるだけ排除して、モノや出来事そのものを鑑賞者の前に提示し、そのことによって既存の概念に問題を投げかけるタイプのアート。(ex.工業製品とアート作品の境界はどこにあるのか?)

また、ほぼ同時期に発生したコンセプチュアル・アートでは、アートにおいて最も重要なのはコンセプト(考え方・発想)だという主張のもと、ある規則に基づいて並べられた数字や、作家が自分で決めたルールにのっとって記載されたカレンダーの日付までもが作品になった。(有名なのが、河原温《Today》シリーズ)。現在、世間一般では「アートの世界ではどんなものでも作家が〈作品〉と言えばアートになる」と思われがちだが、そのルーツがこの辺にあるのではと思う。

そんなわけで、せっせと各作家の特徴や解説を読みながら鑑賞をすすめていき、興味深い内容も多かったのだが、正直なところ途中で脳が飽和状態になってしまった。紹介されている作家の数も多いし、ときには作家ごとの特徴の違いもミニマルだったりする。

近代までの絵画、とくに抽象画以前の作品なら、まずは作品を見て感じたり考えたりしてそれから解説を読んで「ふーん」となるので、どちらかというと理屈よりも感性を働かせて鑑賞する。それがコンセプチュアルになると、解説を読んで思考実験の結果を見る、という形になることが多く、理屈が優先するため、作品のイメージが印象に残りにくく妙に疲れるのだ。

が、それを和らげてくれたのがフィッシャー画廊と作家たちの手紙のやり取りだった。この展覧会のサブタイトルは「ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」。多種多様に見える作家たち、実はドイツ・デュッセルドルフに構えられたフィッシャー画廊に展示されたことのある作家、というくくりで選ばれている。ミニマルやコンセプチュアル・アートの作品では人間らしさというか個人の生々しさは前述のように削ぎ落とされていることが多いのだが、逆に画廊の主と作家が手紙で作品展示についてやり取りする過程に人間味が現れていて、読んでいるとホッとする。

興味深いのは、フィッシャーは完成済みの作品を展示するのではなく、作家をデュッセルドルフに呼び、画廊の近くに確保した作業場で製作をしてもらい、それを展示する方法を取り、これは今で言う「アーティスト・イン・レジデンス」とよく似たシステムだし、あるいは作家から送られてきた素材を作家の指示通りに組み立て設置することで展示作品とする。この場合は単なる展示場所の提供者ではなく、共同制作者と言っても良い。また、展覧会ごとの招待状のデザインにも趣向をこらすなど、大変な熱意が伺える。

フィッシャーはまた、精力的に時代の先端を行く作家の発掘をした。これは! と思う作家の存在を知ると積極的に声をかけ、交通費と制作場所を提供する。おそらく彼の存在なくしては、コンセプチュアル・アートの分野が一世を風靡することはなかったのではないだろうか。

現代だと特にそうなのだが、アート作品でもサブカル作品でもいい、何かがヒットしたり時代の潮流を作ったりするとき、決して作品を作った作家個人の力だけでそうなるのではなく、作品を世に出すために動く人々が必ずいる。フィッシャー画廊とそこで展示をした作家たちは、ある意味幸福な二人三脚ができたのではと想像するのだ。

帰宅してから、あらためて出品リストを見ると、なんと作家ごとに特徴をまとめたコーナーがある! しかも誰がどんな作品を作ったのかがひと目で思い出せるよう、代表作品のアイコンがついている! 総勢18組分! かゆいところに手が届くとはこのことだ。企画担当者も作品を検討しているうちに、きっと頭が飽和しそうになったに違いない。

チラシを見ると一目瞭然ではありますが

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