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階層/回想/快走……?

先日、豊田市美術館でランドスケープツアーに参加したと書いたが、実は同じ日に、岡崎乾二郎・視覚のカイソウ展も鑑賞した。美術館の構造をフルに活用した、大変面白い展覧会だったのだが、何がどういう風に良かったかと考え始めるとうまく説明できる言葉がでない。でも作品を見ているとなんだかワクワクしてくるし、長い長いタイトルはまるで超短編小説だ。ツイッターでつぶやいた通り「理屈抜きで好きとしか言えない」

岡崎乾二郎氏は芸術家という枠から飛び出して多彩な活動を重ねているアーティストだが、活動経歴についてはちょっと検索すれば簡単に出てくるので割愛。純粋に作品から受けた印象を書き連ねてゆくことにする。

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《あかさかみつけ》シリーズより(↑と↓)。同じ形をした立体モチーフでも、色の塗り分け片や並べ方で印象がさまざまに変わるし、このモチーフ自体、見る方向によって全く違った様相を見せ、遠い国の街並みすら思わせる奥行きがあって、どれだけ眺めても見飽きない。

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(↓は無彩色のバージョン。タイトルは《でんえんちょうふほんまち》)

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下のは最初期の作品《木灰木を育てる》。洋裁の型紙がモチーフとなっている。キャプションにも書かれていたが、具体的な何かを作るための素材が抽象的な作品へと変化した面白さがある。この作品を見ていると不思議とピカソの3D……いやいや、キュビズム作品を思い出す。

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↓もいくら眺めても見飽きない不思議な造形。幼い子供が粘土遊びをしているうちに生まれてしまったようにも見えるが、逆に視覚的効果をきっちり計算して作られているようにも見える(タイトルはうろ覚えなので省略)。

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岡崎乾二郎氏の作品はとても抽象的で、さらにタイトルそのものが独立した作品のようなものなので、タイトルと作品を無理やり結びつけようとすると混乱ばかりが生じる。

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だからまず一つずつ、丹念に作品と向き合う。すると何か聞こえてくる。どれも唯一無二の味わいがあって作品本体から受けた印象を抱えたまま、再びタイトルに目をやる。何かわかったような気がする。もちろん「気がする」だけなのだが。

画像7《河の畔、林の傍/叙景の礎》

画像8《花や石(昨日と今日の差のない経験)》

画像9《私の指から没薬の液が流れる》

画像10《刺草とアスパラガスの茂み/不在のペリグネ》

上記作品は4作でひとつのまとまりとして展示されていが、基本的には2つで一組の絵画作品が多い。そういった作品はタイトルを見比べるといろいろ興味深い発見ができる。たとえば、フライヤーでも紹介されている、ある一組の作品タイトルは以下の通り(もちろん2つで1セット)。

「きみにはわからないわね。こどもだもの」こどもはもじもじしながら、しばらく顔をうごかしていたけれども、ふいに視界からこどもの姿が消えて、ちらりとお尻が水面をよこぎり、もう次の瞬間、水中には白っぽい影があって庭に向かって沈んでいった。澄んだ水面に、ひとつぶ雨がおちたように、幾重にも同心円がひろがっていく。今気づいたのだが、奇妙なことは何ひとつなかった。たぶ真夜中でも眼は見えるのだろう。昼と夜は分かちがたく繋がっていたのだし、涙でガラスが曇ってしまっても眼鏡に瞼はないのだから。「涙でぜんぜん見えないや。だから手を伸ばし、なるべく近くの物を掴んでみるよ」
「あなたなら聞こえるでしょう、おばさん」老婦人はもの思いにふけるかのようにおし黙っていたけれど、ついに彼女は壁に向かって大きなあくびをしてしまう。その口を瞬く間に彼女自身の手が蓋をする。壁には月光をあびた窓の形がくっきりと浮きでている。葉を落とした木々の裸の枝組みがかすかに揺れながら、その上に影を落とす。遠くで電話が鳴り、壁一枚隔てた隣室から誰かの声が聞こえた。同時に同じ場所のふたつの相反する悩みに心が奪われているだろう。自分の顔が見えたなら、すべては理解できるはずなのに。「自分の名前まで忘れちゃった。でも、この部屋に誰が住んでいるのかは知ってるわ」

通読すると脈絡のない文章のように思えるし、実際に理路整然とした流れのある内容ではない。一つの文がひとつのイメージを表していて、いくつものイメージが同居しているだけだ。ところが読み手は、文章を読む時の癖で、なんとかイメージ同士につながりを持たせようとする。しばらく悪戦苦闘したのち、さっと視点を引いて、2つのタイトル(長っ!)を比べてみると、対比を成していることに気がつく。冒頭と末尾が「」に囲まれた言葉になっていること。呼びかける対象はそれぞれ少年とおばさん。水面と月光。「昼と夜は分かちがたく繋がっていた」と「同時に同じ場所のふたつの相反する悩み」などなど……。これはまとまった意味を伝えるための文章ではなく、言葉を使ってイメージを描いている、つまり言葉による絵画だと考えると腑に落ちる。では、絵の具を使ってイメージを表してみると? あとは鑑賞者それぞれのお楽しみ。

しかし、本当に言葉による絵画だとすると、恐ろしく斬新な言葉の使い方だなと思う。ピカソの時代、キュビズムが台頭した頃、当時の文学者たち(主にパリに集っていた作家たち)の中にも言葉による新しい表現、あるいはキュビズム的な表現を目指す動きがあった。言葉を既存の意味から解放する試みだ。岡崎氏の作品タイトルは、そういう方向でとても成功しているように思える。

もちろん言葉だけでなく、立体的なモチーフにしても、抽象的な絵画にしても、何らかのイメージ(決して具体的な何かを指し示すものではない)を並べて置いて、それらが鑑賞者の感覚と響き合えるようにしてあるのが岡崎氏の作品だ。だから鑑賞には時間と体力(!)が必要だし、逆に鑑賞者の状況に合わせて柔軟な受け取り方ができる。時として自己主張の強い具象絵画とは違って、とても自由な作品群だ。ちなみに、この展覧会のフライヤーには以下の1文がある。

岡崎は、この世界は決して一元的なものではなく、たがいに相容れない固有性をもったばらばらな複数の世界から成ると言います。そして、それらが一つに融合されることなく、それぞれの個性を保ったまま交通することが可能となるどこにもない場所が成り立つとき、豊かな創造性が生まれるのだという考えを堅持してきました。

最後に、重量級でありながら実に軽やかな印象を与える楽しい作品《1853》を置いておく。

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