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「表現」という行為の芯にあるもの

本日はアートから少し離れて、このようなワークショップに参加してきた。

「俳優を目指さない人のための演劇ワークショップ」(長久手市文化の家)

結論から言うと、とても面白い体験だった。演劇なんて未知の世界だし、やっぱり止めといたほうがよかったかも…と参加するまで少々気が重かったものの、いざ始まってみると、とてもクリエイティブな時間となった。

何が良かったかって、体を動かすワークや簡易なゲームを数多く体験できたこと。子どもの頃によく手遊びや鬼ごっこ、フルーツバスケットなどをやったけれど、その延長線みたいな感じで結構真剣に遊んでしまった(ということは、子どものころの遊び体験は身体能力を高めるために一役買っていたということ)。中でも興味深かったのが、エア大縄跳び。縄こそないけれど、回し手の動きに合わせてみんな入っては出ていくことをやると、本当に大縄跳びをやっているような気分になるし、動きもリアルになるし、息が上がる。

で、これは何のためにやったかというと、演者と観客の間の約束事、という演劇に欠かせない要素を確認するため。エア縄跳びなので、縄はないけれど、あたかもあるような動きをすることで、「縄は見えないけど、あるという前提で話をすすめる」という演者と観客の間の取り決めが自然と成立する。演劇はこういった暗黙の了解の上に成り立っているのだと言われ、なるほどとうなずいてしまった。

逆に演じるときは、この暗黙の了解をいかにうまく機能させるかということに腐心することになる。ものすごくざっくりいうと、演じ手は実際に悲しくなくても悲しそうな声を出したり表情を作ることで、見ている側には悲しみが伝わる。そもそも感情は直接見聞きできないし触ることもできないので、身体表現によって、ある意味間接的に伝えるしかない。外側から攻めるというやつだ。

というように、座学と実践を交互に行い、演劇における表現について、とても芯になる部分、言い換えればエッセンスを体験することができた。

ふと、この話、既視感があるような気がしたのだが、思い返せばオーケストラで楽曲を演奏するときにも似たようなことが言えるのではないだろうか。一つのフレーズを演奏するにも、音の大小、長さ、音質などなど、ふさわしい表情をつけ、その場にふさわしいフレーズを作る。それがさらにまとまって音楽的なまとりまりができたり、風景が見えたり、大きな感情を表したりする。また、楽器を扱うということは楽器を身体の延長に見立てて扱うので、俳優が表現のために自分の身体を扱うのと似ているように思う。

ワークショップ全体の雰囲気も良く、参加者の方々の生き生きとした表情が印象的だった。講師の手腕のおかげだと思うのだが、心理的な安全が守られている場で、自分の心と身体を開くゲームやワークに取り組むうち、人それぞれの地が出てくるというか、本来持っているオーラみたいなものが発揮されてくるのがわかる。すると、その時その場限りの一期一会的な協同体が生まれる。

そういう場を体験すると、体験の前と後とで少しだけ自分の中の何かが変わったような気がする。結果が目に見えてすぐに表れるものではないのだろうけど、こういう体験を積み重ねていくうちに、いつのまにかコミュニケーションが苦手ではなくなっていたとか、あるとき思いも寄らない力を発揮すると……いいよね。



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