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何かが形をとって生まれるその直前の

最初にお断り
この記事に登場する「赤平史香展」は、美術展ナビで紹介させていただきましたが(https://artexhibition.jp/topics/news/20230518-AEJ1390155/)、こちらでは初めて赤平さんの作品と出会い、「これは! 世の中に宣伝したい!」と思った時の、比較的生々しい感想が書かれています。同時開催の「収集された海外の陶磁器」についても触れています。B面的な楽しみ方をしていただけたら幸いです。


GWが終わったあと、久しぶりに雨が降った日に瀬戸市美術館へ立ち寄った。その時は、ただ招待券を持っていたからという、あまり褒められない理由で、あまり期待は抱かずに展示室へ足を踏み入れた。それから唖然とした。見る人のいない静かな部屋のなかでたたずむ、世界中から集められた陶磁器たち。美しい。の一言だった。なんと、この展示室を一周するだけで、世界各地を代表する陶磁器の名品が見られるではないか。

にもかかわらず、閑古鳥が鳴いていたのは、もしかするとタイトルに問題があったのかもしれない。「収集された海外の陶磁器」。この文字列から、あの美しい品々を思い浮かべることは難しい。ただし、事実を述べていることには間違いない。というのも、明治以降、日本の陶磁器は、海外へ売り出すため、海外で流行しているスタイルや図案を真似る必要があり、そのための資料として世界各地から優れた陶磁器が集められていたのだ。集められた品々の一部は現在、国立研究開発法人産業技術総合研究所中部センターの収蔵品になっており、愛知県陶磁美術館が管理している。

今回の展示は、国立研究開発法人産業技術総合研究所中部センターの収蔵品をお蔵出しした形になっており、また、瀬戸市が独自に集めた洋食器も展示されている。サンプルとして世界中から集められた名品は研究対象として活用され、今では19世紀の世界各地のすぐれた陶磁器をまとめて見られるコレクションとなった。

ミントン、ウェッジウッド、マイセン、ロイヤルコペンハーゲン、ロイヤルデルフト、セーブル、ローズビルポタリーなどなど、欧米の有名どころのみならず、中国や韓国の陶磁器もあり、見応え十分。それぞれの国の特徴を比べると味わい深い。また、各国の陶芸事情を説明したパネルが秀逸で、写真に撮って保存しておきたいと思ったら、図録(300円!)の付録としてついてくるという。迷わず買った。

ペンギンがこんなところにいる!
もちろんイチオシ

さて、十分な満足感を覚えながら2階の展示室へ上がると、今度は現代の陶芸作家さんの作品展が開かれている。第4回瀬戸・藤四郎トリエンナーレグランプリ受賞者展「赤平史香展」だ。

藤四郎トリエンナーレというのは、瀬戸市が3年に一度開催している、「瀬戸の土を使う」ことを条件としている作品展だ。このトリエンナーレに応募したい作家は、まず瀬戸市内の採土場(通称「瀬戸キャニオン」)で材料となる土を採取する。それを焼き物用の粘土へと各自の手で精製し、その粘土を使って個性あふれる造形物を焼き上げる。審査があり、グランプリ受賞者には、個展開催の権利が与えられる。なお「藤四郎」というのは、鎌倉時代に瀬戸窯を開いた「陶祖」とされる「加藤四郎左衛門景正」のことであるといい、毎年4月には藤四郎を記念して「陶祖まつり」が開かれる。(ただし、近年の研究では藤四郎の実在が疑われるようになり、この伝承自体が江戸時代に創作された可能性があるという)

藤四郎の由来はともかく、「藤四郎トリエンナーレ」では若手の作家が個展を開くことで、その後のキャリア形成につなげることができる。これまでもユニークな作品が受賞してきたことは知っていた。だから軽く期待はしていたのだ。

最初に、入り口はいってすぐのパネルに作者のコメントがあったので、読んでみた。「制作で悩んでいたとき、恩師に『生まれかけているその姿でいいんじゃないですか』と声をかけてもらった」というエピソードがなんかいいなと思い、おもむろに作品へ目を向けると……。そこには本当に生まれかけの何かがたくさん、優しい風合いの陶板の上に並べられていた。子供のころに、道で拾ったお気に入りの何か、教室の片隅で掃除の時間に見つけた何か、運動場で拾った何か、白い画用紙に書きかけて何者にもならなかった何か――。

《よびごえ》

形になりそうでならないパーツは、作品によって並べ方が違い、その配置は言葉にできない詩情のようなものを必死に訴えかけているかのような感じがした。不思議と心に響き、とつぜん泣きそうになった。現代美術と言われる分野の作品を見てこんなふうに感じるなんて滅多にない体験だったのに。

また、いくつもの正方形の台座に、落ちていたであろう釘や、様々なもののかけらが丁寧に乗せられている《日記》という作品があった。それぞれのものにはその形に至るまでの間に長い時間が積み重ねられていることがわかる。日常の役にはたたなくても、記憶を内側に留めているという理由で価値のあるモノたち。

《日記》(共作:波多野祐希)より

奥の方には丸みをもったパーツをくっつけてひねったような立体作品「ふたごのたましい」がある。陶器なのにとてもなめらかな形をしていて、しかもとらえどころのない造形だ。目で形を楽しみ、できるものなら触って形を確かめたくなった。たましいに形があるとしたらあんな風なのだろうか。

《わたしはふたごのたましい》

子供のころ、土や砂をこねくりまわして遊んでいた記憶がよみがえる。土の中から、もののかけらが出てきて、それがいったい何だったのか想像してみたことまで思い出す。形のないものから何かを生み出そうとして手や頭を働かせるのがとても楽しかったことも。その経験が、今となっては形のない何かから言葉をすくい上げる作業へとつながっている。いつまでもそこに居たくなるような、優しい始まりの空間だった。

《ひねまね》

ところで、話が1F展示室に戻るけれども、「世界の名品巡り~収集された海外の陶磁器~」というタイトルとかダメですかね。


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