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「勉強」の語源について

「勉強」という言葉には、その字面から「無理してやる」というネガティブなイメージが付着していますが、語源をたどると、それが誤りであることが分かります。中国の古典『中庸』にある一節の、書き下し文を掲げましょう。


(書き下し文)

或ひは生まれながらにして之を知り、或ひは学んで之を知り、或ひは苦しんで之を知る。其の之を知るに及びて一なり。或ひは安んじて之を行なひ、或ひは利して之を行なひ、或ひは勉強して之を行ふ。其の功を成すに及びては一なり。


ここで言う「之」とは「道」のことです。古代中国では、誰もがいつも通う道ということから、人として守るべき道徳の規範という意味で用いられました。そして、人としての道を説いたのが、孔子を祖先とする儒家でした。(『中庸』は、朱子によって儒家の根本的な教典である「四書」の一つとして定められたものです)

さて、『中庸』のこの一節では、「道」を知るには三つの方法があると述べられています。その一つが「勉強」であると言うのです。現代語訳してみます。


(現代語訳)

ある者は生まれながらにして道とは何かを知っている。ある者は学んで道を知る。またある者は苦しみながら道を知る。このように、道を知る方法は三者三様であるが、結果的に道を知ったという点では同じである。ある者は何事でもないように道を行い、ある者は道とは何かを確かめるようにこれを行い、またある者は頑張って道を行う。このように、道の実践のしかたは三者三様であるが、道を実践しその功を発揮したという点では同じである。


ここで述べられているのは、生まれながらの才能や素質に関係なく、誰でも「道」にたどり着き、実践することができる、ということです。たしかに、道を容易く理解し、訳もなく実践できる人もいます。しかし、そうした特別な才能がなくても、「勉強」することで「道」を体得することができるのです。

このように語源をたどると、無理強いするというのが「勉強」の本来の意味ではないことに気づきます。すべての人にとって「道」を切り開くことを可能とする営為、それが「勉強」なのです。

裏返せば、「勉強」をしないというのは、自分の可能性を自分で閉ざしてしまうことであるとも言えます。

何のために「勉強」するのか、それを理解すれば、無理強いではけっしてなくなるでしょう。

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