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「万物の悪しきもの」としての人間

 かつてセンター倫理で出題された問題で、気になっていたものがありました。(2014年度本試験第3問問4)

 問題じたいは難しくありません。国学者である賀茂真淵の著作ですから、①の『国意考』が正解です。これは、センター倫理の受験者ならば、必ず学習している内容です。

 しかし、賀茂真淵が人間を「万物の悪しきもの」と捉えているというのは、どういうことなのでしょうか? 教材を整理していてまたこの問題にあたり、良い機会ですので調べてみることにしました。

 原文には次のようにあります。

「……凡天地の際に生とし生るものは、みな虫ならずや、それが中に、人のみいかで貴く、人のみいかむことあるにや、……おのれがおもふに、人は万物のあしきものとかいふべき、いかにとなれば、天地日月のかはらぬままに、鳥も獣も魚も草木も古のごとくならざるはなし、是なまじひにしるてふことのありて、おのが用い侍るより、たがひの間に、さまざまのあしき心の出来て、終に世をもみだしぬ。……」(『国意考』)

 「この天地に生きとし生けるものは、すべて虫けらと同じである。その中で、人だけがどうして特別に尊く、鳥獣と異なるということがあろうか」――このような一文に続いて、「人は万物のあしきもの」と出てきます。

 真淵はなぜこのように考えたのか、「いかにとなれば」以降でその理由を説明していますので、読み進めていきましょう。天地日月は変わらず、鳥獣も草木も古のままであるというのに、人だけはなまじっか物事を理解する能力(しるてふこと)があり、それを用いるがために、人と人の間に悪い心が生じて、ついに世も乱すのである」――真淵は、「物事を理解する能力」という、人間の特質としてそなわっているものを問題視していることが分かります。

 賀茂真淵が努めた国学とは、儒教や仏教(からごころ)が伝来する以前の日本固有の精神(やまとごころ)を探究する学問です。真淵が生きた江戸時代には、儒教が幕府や藩を支える教学とされていました。これに対して、『古事記』や『源氏物語』などの古典の実証的な研究を通して、やまとごころの解明に努めたのです。
 真淵ら国学者は当時の儒学者を痛烈に批判しましたが、その核にあるのは、ことさらに物事を言い立てようとする点です。例えば、真淵の弟子で国学を大成させた本居宣長は、死の受け止め方について次のように述べています。

 「神道の安心は、人は死に候へば善人も悪人もおしなべて、みな黄泉国へゆくことに候。善人とてよき所へ生まれ候ことはなく候。これ古書の趣にて明らかに候なり。……さて、その黄泉国は、きたなくあしき所に候へども、死ぬれば必ず行かねばならぬことに候故に、この世に死するほど悲しきことは候はぬ也。しかるに、儒や仏は、さばかり至て悲しきことを、悲しむまじきことのやうに、色々と理屈を申すは、真実の道にあらざること、明らけく候なり。」(本居宣長『鈴屋答問録』)

  古来日本では、死者の魂は黄泉国に行くとされます。黄泉国は「きたなくあしき所」ですが、死んだら必ず行かなくてはならないのですから、死ぬことは悲しくて当然です。しかし、儒教や仏教が、それが悲しむことのないものであるかのように「色々と理屈を申す」のは、真実の道ではないと言うのです。
 儒教があれやこれや理屈っぽく言うのに対し、嬉しかったら笑い、悲しかったら泣くというように、素直に感情を表現するのが、やまとごころであると主張します。例えば、宣長は「真心とは、よくもあしくも生まれついたるままの心をいふ」(『玉勝間』)と述べています。後付けされた善悪の観念から離れた、偽りのない素直な心が真心なのです。

 話を戻しましょう。こうした国学の立場を踏まえると、真淵が人間を「万物の悪しきもの」と考えた理由もよく分かります。この世界は、造物主が作ったものではなく、おのずから成ったものであるというのが、『古事記』に描かれた神の世界です。そこに、「しるてふこと」で切れ込みを入れていく人間という存在は、邪魔でしかありません。

 現代における環境問題を考えるうえでも、このような人間観は示唆を与えるように思います。もちろん、より良い自然と人間の関係を築くために、人間が生み出した科学やテクノロジーは必要です。しかし、人間が自然からはみ出しているゆえんの自覚は、新たな道筋を見いだすことにもつながるのではないでしょうか。

 

 

 

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