「生きててえらい」という考え方

さしです。粉コーヒーを牛乳に溶かして作る飲み物が美味しくて毎日飲んでます。うまー

 
 
今回は僕の昔話に絡めた自己肯定感の話です。あんま覚えてないのでハッキリしない箇所があるかも知れないです。ご了承ください。 

 
 

タイトルにある「生きててえらい」という考え方、最近とある方の影響でするようになってきたのですが、僕にとっては「発明」でした。
  
小学校では自分ではどうにも出来ない忘れ物を怒られ続け(酷い時には突き飛ばされた、マジで平成の出来事か?)、高2になってから数ヶ月「あんた何にもしないクセに迷惑ばっかかけやがって」と親に怒られ続けた結果なのか、高2の夏頃には「集団に迷惑かけるくらいなら消えたい…」というメンタルが完成していました。

しかもその状態になっていると更に失敗がエスカレートするので、怒られて精神が削れるループにハマります。そんなこんなで僕は自己肯定感なんてものとは疎遠になっていきました。

 
そんな時にTwitterで目にしてしまったのが「生きててえらい」という言葉。それまでの僕は無条件に存在を認められるなんてことはあまり無かったので、「生きててえらい」という言葉の発言者に興味を持ち始めてしまいました。
 
 
そしてなんやかんやで高2いっぱいで通ってた自称進学校を辞めて通信制に転校し「今日も何かしらえらい」と軽率に肯定するようになって来ました。今思うのは、「生きてるだけでえらいから、無理して今よりえらくなろうとしなくていい」ということです。

 
自分に出来ないことを怒られる環境では、失敗を怒られるのを「存在自体を否定されている」と思ってしまいます。出来ないものは出来ない。「集団に迷惑ばっかかけて自分なんて存在価値がない」と思うのならば、「出来ないことを怒られる環境」を抜けるのもありかなあと思いました。

僕は、忘れ物の件は進学して先生が変わって、親の件は僕が学校変えて親へのストレスが減ったことであまり怒られなくなったのがラッキーでした。
 
無理して自分を肯定するってより、自分を否定してしまう環境を極力避ける、みたいな…?

そしたら「あれ、アレ出来なくても生きれるじゃん」って少し心が軽くなると思いました。

忘れ物ばっかでも、半不登校でも今のところ生きてます。えらい。えらすぎる。

結局「嫌なことで生きていかない」に落ち着いてしまいましたね。(とある界隈の方は色々察してるはず。)

以上、僕の昔話と自己肯定感の話でした。
書ききってえらい。ここまで読んだ方えらすぎる。

 
 
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生きててえらいのでご褒美ください(((
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余剰があったらお恵みを… 懐が暖まれば書く気も湧くはず…