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エンジニア的思考と珈琲の相反する事柄

長いことエンジニア(機械関連)として生きてきた。

工業製品は品質と均一な規格が必要で揃っていなければならない。

エンジニアは、ある機能を持つ製品を設計し、各部品を許された範囲の誤差で加工し設計図通りに組立てる。
そして、その製品が設計された機能を許容範囲のミスで動作しなければならない。

そのためには細かな決め事や均一性が必要で、あいまいさは不要である。

ところが生きて行くには全てが事柄が揃っていて、均一であるというわけにはいかないのだ。

しかし、ついつい生活の中でも常に同じものが同じ様に出来ることを望み、そのように思いこんでしまう。
人間も自分が考えていることは他人も同じ様に考えていると思ってしまい、味覚も美味しいというのは普遍だと錯覚してしまう。

珈琲も同じ味を求めてしまうし常に同じように焙煎して、同じように淹れていれば同じ味になることを求めてしまう。

これは違うんだ。

珈琲の豆(種子)は果物で農作物であり、熟し方も違い大きさも違っているのが当たり前なので同じ味になるなんてあり得ないことだと最近になってようやく理解するようになってきた。

エンジニアの呪縛から解き放たれて、一期一会の珈琲の味を楽しむ事ができるようになってきたという事だ。

あの時の美味しいと思った味を探し続けるのではなく、その時の豆と抽出の結果がその時の味になるので、その味を楽しむのが一番楽しく美味しいのです。

エンジニアだったからこんな考え方になったのか、生まれつきのものか、両親にそのように育てられたのか、もしくは、資本主義の大量生産の中で生きてきてこうなったのかもしれない。

多様性や個性を大切にする事が物の本質なのだと思う。この歳になってようやく気がついたがとてもありがたい事だと実感している。

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