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カフェのコーヒー

ある時期、カフェ巡りにハマっていた。

その頃よく行くカフェには、入口に焙煎機を備え付け、「自家焙煎してます」とアピールしていて、これが私の良いカフェ選びのポイントだった。何よりプロである店主がこだわった焙煎をして専門家の技でドリップしているのだから、美味しい珈琲を淹れてくれるに違いないと思っていた。

スタバが登場してから、ほとんどの店ではエスプレッソマシンを一番目立つカウンターに据え付けて、ドリップやサイフォンで淹れるとこは少なくなって来た。
その機械で淹れたエスプレッソにお湯で薄めたものをアメリカーノと呼んで提供していた。それでも良い雰囲気と音楽でそこで飲んだコーヒーを美味しいと感じていた、その時までは。

「バールで立ち話」を読んでからは私の珈琲はとの関わりは変化し「生活の中の珈琲」を目指す様になって来た。

いつ焙煎したか分からないコーヒー豆と誰かが淹れてくれたコーヒーではなく、自分で焙煎して自分で挽いて、自分で淹れたコーヒーの味と香りを味わってからは、カフェに珈琲の美味しさを求めなくなり、私のカフェ巡りは終わりを迎えた。

「生活の中の珈琲」とはイスラム圏で発祥した当時の焙煎、挽く、淹れるという、生豆を買って焙煎から淹れるまでを自分で行う珈琲で、生活の中に溶け込んだ特別ではない飲み物のことだ。

しかし、鼻垂れ小僧の頃から私の知っている日本では、喫茶店とカフェの違いはあっても特殊な場所で専門の人が提供する生活の珈琲とは真逆のコーヒーを飲んできた。

自分で焙煎した豆をミルで挽いてドリッパーに入れ、お湯を注いで蒸らすと粉が膨らんでドームになる。豆を挽く時から香りが漂って来て蒸らしの時には最高潮になる。売っているコーヒーのほとんどがお湯を注いでも膨らまない。新鮮で香りがたっぷりの珈琲が美味しい。こんな楽しみを抜きにしてコーヒーだけを飲むなんてあまりにももったいない。

現在はますます珈琲が不思議な方向に進んできて、ネットやYouTubeなどで見る珈琲をレクチャーする番組では何か違和感を感じてしまいます。
日本の文化は特殊で、とにかく何かを突き詰めることを良しとする。豆はオーガニックのXX農園で焙煎はXX会社の直火焙煎機、温度は、お湯は等々、終いには秤に乗せてお湯の量まで計ってしまう。元エンジニアとして品質管理の面ではすごくまともなやり方で、理解はできるけど、あまりにも工業的な、味も素っ気もないコーヒーが出来上がってしまうのではないか。

でも、珈琲ってそういう物なんだろうか?

私の珈琲は、生活の中にあって時間を作り、生豆を焙煎して香りを楽しみ、ミルで挽いて、また香りを楽しみながらドリップして、一杯の珈琲を飲んで、心が穏やかになり幸せな気持ちにしてくれる、そういう物であって欲しい。

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