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どのくらい「初めての死」を、憶えているだろうか。

2024年5月15日深夜の記録より

 その夜は歯を磨いていた。
 小学校の野外活動で、似島で一日目の活動を終えキャンプファイヤーを終え、就寝に向けて歯を磨き談笑しているところだった。突然担任がやってきて、高橋くん来い、という。心当たりはないが怒られるのか……? とうっすら恐れながら急いで口をゆすぎ、洗面所を出た。そのとき担任がどんなふうに話したかは全く覚えていないが、祖父が危篤だから野活を切り上げて本土へ帰れとのことだった。
 小さな漁船に別クラスの先生に荷物と一緒に乗せられ、似島を出る。夜の海を近くで見るのは初めてだからすごく見たかったけど、同行した先生が「いいから宇品につくまで寝てなさい」と顔を善意で伏せてくれたことを覚えている。それが残念だったことを覚えている。

 祖父は映画技師だった。当時はデジタルではなく、特に長編は大きなフィルムで大昔特別に、一回だけ映写室の中で仕事を見せてもらったことがある。フィルムの置かれた映写室はなんだかよくわからないけどすごくて、カッコいいと思った。小さな劇場の映写も担当していた。私の映画好きは、間違いなく祖父の与えてくれた経験からである。
 しかし実は、映画以外での接点はほとんどない。記憶の限りでは「頑張って運動会に駆けつけてくれたときの写真」があるため、当時は映画館も多かったし多忙な人間なのだったと思う。映画の帰り際、暗い映写室から逆光でシルエットになった祖父が私に手を降ってくれていた光景をいつも、未だに思い出す。顔がおぼろげになってきても、これだけははっきりと思い出す。
 母方の祖父は私が産まれる前に他界していたため、私にとっては唯一の祖父であり、何より尊敬する映画技師─今で言うならクリエイター─だった。
 そして、初めて私に「死」を直接教えた人間である。

 宇品に到着するころはたぶん22時も回っていただろう、家族が車で迎えに来ていた。両親はたぶん先生と言葉を交し、私もたぶんなにか交わしたが覚えていない。病院への道中も覚えていない。ただ、漁船のモーター音だけ聞こえる静かな暗い海をすこし思い出すばかりだった。
 病院に着けば、薄暗い病室に蛍光灯が灯り親族などが寝たきりになっている祖父のそばにいた。私にはわけがわからなかった。私は、人が死ぬという当たり前のことを知らなかった。
 祖父に黄疸が出たこと、入院したこと、洗面器いっぱいの血、数度見舞いに行ったこと、それらを断片的に憶えている。そのときの祖父の顔は覚えていない。
 けれど、祖父の柔和な笑顔だけは病室とも映写室とも変わりなく覚えているのは写真のおかげだろうか。仕事場に招いてくれるほど、おそらく仕事でもらったリーフレットをくれるほど、映画をとおしてせめて祖父は私に接してくれたのだと今は思う。その祖父は、硬くまぶたを閉じ、ヒューというようなグーというような呼吸音を繰り返していた。

「手を握ってあげんさい、おじいちゃん頑張ってって」

 たぶん母だと思うんだけども、そう言われてよくわからず祖父の手を握った。私は死を知らない。祖父の状態がわからないし、夜もとっぷり暮れてきて眠さのほうが勝ってきていた。
 どうしてそんなことをしなくちゃいけないの。
 眠い頭で考えながら、祖父のぬるい少し冷たい指先を握った。ねむいのに。どうしてみんな悲しそうなのかもわからない。そのとき、祖父の手が僅かに動いたことを今でも憶えている。だから、指先の感覚もまだ憶えている。
 今から考えれば、危篤であとはもう……というときに意識を取り戻した瞬間なのだ。周囲は湧き、私もなにか言ってあげて! と言われて戸惑って「がんばって」とか、よくわからないままに言っていた覚えがある。
 そのとき、祖父は目を開けていたような、なにか言ったような、ぼんやりした記憶がある。それからほんの少しして、問いかけに祖父の返答がなくなり周囲は慌ただしくなり、医者が臨終時間を告げ祖母が泣き崩れた瞬間だけを憶えている。深夜だった。
 おへんじがないことで、目の前の人が死んだことを、やっと理解した。私の「初めての死」は無知と幼稚な睡魔に負けたのだ。それから霊安室の説明を受け、病院を出て帰り、通夜の準備などをして……という流れを異様なほど憶えている。
 とても重要なターンだった。喪失だった。「死」を知らないにしてもあまりにも取り返しのつかないことをした。あのとき、おそらく祖父は来てくれた私になにか声をかけてくれていたはずなのだ。激しい後悔で胸がいっぱいで、私は今でもこの悔しさを思い出すとはらはらと涙が流れる。

 しばらく映画館には行かなかった。しばらくして映画館に行っても、もちろん祖父の姿はない。けれど、いつまでも逆光で私の姿が見えなくなるまで手を振る祖父の姿を思い出す。私も見えなくなるまで手を振っていたから。
 ……それから10年経って、なんの因果か祖父が映写していた映画館があったところの店舗で働くことになった。しかも担当が「映画化された本」のコーナーで、店舗のマネージャーとは祖父が映していた映画館の話で盛り上がることもあった。
 現在は私はそこを辞めて別の場所で働いているけれど。

 今でも強く後悔している。その死から5年ほど立ち直れなかった。正確には、どのように感情を処理すればいいのかわからなかった。今際の人間にすることではなかった。たとえ「死」を知らなかったとしても。祖父が死んだ瞬間に、自身の愚かさと稚拙さにすぐに気がついたのだから。
 ただ、私の愚かな行動によって訪れた永遠の別れにも拘わらず、遺された私には尊敬する祖父の仕事とその風景、何より手を振るシルエットが克明に今でも思い出せる。こんなに幸福なことはないだろう。

 今夜この時間、なぜこれを書いているのかはわからない。べつに祖父に所縁のある時間ではない。ただこのあいだ、台所に立って蛍光灯をつけて、じっとシンクを見ていたら思い出したことを書き留めておきたかった。

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