無駄話

 「心の窓」がある。
 これは、創作の話だけれど個人の話でもある。抽象的な窓。

 自創作短編集『花緑青の窓辺より』の表紙にもした、眼下に瀬戸内海を見下ろす「だけ」の窓だ。

 はじめは、キャラクターの家にこの窓があるといいな……と思って描き始めたのだが、いつの間にかそれは「瀬戸内のただうつくしいだけを留める窓辺」という抽象的な……自らの心などをあらわす象徴になっていた。心象風景というやつだ。
 戸のあるなしすらわからない窓辺に薄いレースカーテンだけがよくはためく。それ以外の構造物はない(作品によっては描き入れているが)。
 私はこれを描くとき思い浮かべるとき、よく「心の窓、」と自分の中でつぶやく。
 この窓辺に立つときというのは、あまり明るくない気持ちのことが多い。かといって、落ち込んだりしているわけでもない。ほんのすこしかなしさのあるとき、静かになりたいとき。潮風ではためくレースカーテンの向こうに、海を見る。

 子どもの頃、目の前がすぐ海の家に暮らしていた。立てば遠くまで瀬戸内が広がり、寝転べば防波堤の切れ端から海が見える。ときにフェリーや漁船がゆく。
 なんでもない夏の日──祖母が亡くなって初めてその家に訪れた夏のその色がよく記憶にのこっている。

 海はいつもうつくしくて、さみしくなる。ずっとそうだ。どんなことがあっても、ただそこにいる。私が海を見ているのではなく、海が私をみている。そう思う。
 海と私の一方的な世界は一生交わらない。きっとそれがさみしい。けれど、その不干渉さが好きなのだと思う。
 心象風景としての窓辺に立つとき、キャラクターを立たせるとき、かならずさみしさも連れて行く。

 海は待っている。私のかなしみもさみしさもよろこびも関係なく、ただ残された青を持って待っている。ただそこにあることを、“待っている”と形容するのは都合が良すぎるかもしれないが……。
 「心の窓」というのは、その〈海〉に会う─あるいは眺めるため─の窓辺なのだと思う。

 海は待っている。
 心の中で変わりなく、眼前にも変わりなく、ただただ待っている。人の営みをときに受け容れ、ときに蹂躙しながら、何万年も人をみながら待っている。
 愛おしいと思う。

 今日もすこし窓辺に立つ。

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