小林秀雄の一節

小林秀雄についてあまり良いイメージを持っていなかった。高校の頃、中也を溺愛していたこともあってか、ぼくにとって当時の彼は、紛れもない大敵であった。それだけの印象をつけておきながら、そんな彼の作品も祖父の書庫にポツリと淋しく置いてあった「考えるヒント」、それから中也の死後、彼が中也を詠った詩を一つ読んだだけであった

ぼくはよく好んで、近代小説を読むのだけれど(大した考察もせず)、興味に任せおおよその数を重ねていくとその時代の作家同士の関係なんかが少しづつ分かってくる。例えば三島由紀夫と深沢七郎、太宰治と井伏鱒二、武者小路実篤と志賀直哉、堀辰雄にリルケ、ヤコブセン、挙げ出したらきりがないけれどもこういった関係性を一度知ってしまうと、良くも悪くも勝手に自分なりの印象付けてそれらの本に取り掛かってしまうのだ。加えてぼくは不真面目なので、いつもその時の心持ちや感覚で言葉を捉えてしまうからいけない。同じ山梨生まれなのもあってか、ぼくは妙に深沢七郎が好きだ。彼のエッセイなんか読んでいると、自分の普段からの自意識もスッと忘れられ、作家ってなんて気楽で、大変な生き物なんだろうと思う。

と、御託はこの辺にしといて。今回話したかったのは、ついこの間発見した小林秀雄の次の一節についてだ。これは現代に置き換えて考えても、多くの人に深く通ずる言葉ではないかと思う。元々決定されている一般、事物、関係、のせいで、僕たちは知らず知らずのうちに何かしら、判断をしてしまっている。他者とのコミニュケーションにも、同じことが言えるはずだ。その意味を、印象を、一度忘れてみること。ぼくは何か自分を見透かされ、心に隠し持っていた本質を切り裂かれた気がしてハッとした、そうして、これはなんて美しい文章だろう、と思った。悔しいけれど、彼に興味が出てきてしまった。きっと事あるごとにこの一節を思い出すことになるだろう


見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は注意して見ます。その妙なものの名前が知りたくて見るのです。何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。                                        小林秀雄 (美を求める心 より)

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