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高麗人参にかけた夢

「人参で行水」という、ちょっと面白いことわざがあります。
ご存知の赤いニンジン🥕ではなく、高麗人参のことです。もともと日本でニンジンといえば高麗人参だったそうです。

高麗人参を煎じた汁を浴びるようにしても、治らない病の状態、転じて「医療を尽くしても治らないほどの病気」を表すものです。

高麗人参は古くから滋養強壮によいとされておりまして、「人参湯」として煎じて飲むほか、漢方薬の材料にも広く使われております。

高麗人参は特殊な環境でしか育たず、栽培がとても難しい上に収穫まで5~6年かかるといわれておりますが、その代わり薬として珍重されるため高値で取引されます。連作ができず、一度収穫すると15年畑を休ませないといけないほどですので生産量もおのずと限られてきます。現在栽培されている地域は中国東部、朝鮮半島、そして日本のごく一部の地域です。

高麗人参がいつ頃日本に入って来たかは諸説ありますが、栽培に関しては徳川吉宗が対馬藩に命じて半島で種子を入手して、諸国に広めたと云われています。今でももちろん高価なものですが、江戸時代までは朝鮮半島から輸入するしかなく、おまけに天然ものでしたので大変な貴重な品だったそうです。

日本の三大生産地といえば、福島、長野、島根です。なかでも有名なのは島根県松江市の大根島です。人参の産地が大根島とは面白いですね。こちらで生産された高麗人参は「雲州人参」と呼ばれておりまして、江戸時代中期、栽培に成功した出雲国松江藩に大きな富をもたらしました。


さて、この雲州人参の栽培成功は松江藩の悲願だったのですが、江戸時代の中期、全国のほとんどの藩は参勤交代や幕府の普請、相次ぐ飢饉で財政ひっ迫しており、出雲松江藩も例外ではありませんでした。

松江藩は越前松平家(結城秀康系)の流れを組む親藩でしたが、松平出羽守宗衍(むねのぶ)が6代藩主に就いた頃は財政がすでに破綻しており、「出羽様(もしくは雲州様)御破滅」といわれるほどでした。藩の借金は50万両ともいわれており、現代の金額でおよそ650億円と莫大なものでした。破綻の原因は享保の飢饉や比叡山普請のような公共事業によると言われていますが、松江藩があまり豊かな土地ではなく、生産力が低かったこともひとつあります。また徳川一門としての習いにいろいろとお金もかかったことでしょう。

藩主宗衍も藩政改革を試みますが結局あまりうまくいかず、財政破綻の責任を取り37歳で家督を息子の治郷に譲って隠居してしまいます。宗衍は新田開発を奨励するとともに、松江の厳しい気候条件、やせた土地にも根付くような特産品の開発、増産を考えておりました。衣料の原料となる木綿、和紙の原料となる楮(コウゾ)、木蝋の原料となる櫨(ハゼ)、そして高価な取引が期待できる高麗人参の栽培に目をつけました。しかし資金不足に陥ってしまい、宗衍は道半ばで藩主を退いてしまいました。(隠居の理由については、奇行や変わった趣味があったこと、親政を敷きすぎて伝統的に合議制だった家臣団の反発を買ったことなど諸説あります。)

その事業は息子の7代藩主治郷(はるさと)に受け継がれ、宿老朝日丹波とともに高麗人参の栽培に注力していきます。

朝日丹波はこのときすでに還暦を迎えており、一度は退いた身でありながら、周囲に請われる形で藩政に復帰し、若き治郷の補佐として優れた政治手腕を発揮しました。四公六民から七公三民という重い税を課し、商家に借金を棒引きさせるなど、大変厳しい改革を断行する一方で、主君治郷にも、茶の湯などの贅沢を慎み、質素倹約するよう遠慮なしに諫言するなど松江藩の立て直しに尽力しました。

次第に特産品の栽培、増産が成功し、和紙や木蝋は藩外にも売り出されるようになりました。そしてついに高麗人参の栽培も軌道にのり、「雲州人参」として諸国を流通するようになりました。雲州人参はその後も主力の特産品として松江藩の財政を支えていきます。

藩の借金を完済し、余剰金ができるなど潤った松江藩は、その後に起きた天明大飢饉の際も藩内の犠牲を最小限に食い止めて、何とか乗り切りったと伝わっています。しかしその一方で藩主松平治郷は性懲りもなく再び藩の財政を傾かせるほどの贅沢を始めたそうです。

おわりに

その後治郷は自らの号を不昧(ふまい)と称し、茶道不昧流の開祖として大成しました。

藩の財政が潤ったのちに、天下の名器を収集するなど散財し、一度は立ち直ったはずの松江藩の財政を再び悪化させたと云われております。収集した茶器の中には3000両(4億円)する高価なものもあったそうです。
しかしそのおかげで松江は学芸都市として発展し、不昧所有の貴重な茶器の数々は、文化の保護に大きな役割を果たしたという側面もあります。また、宗衍、治郷親子の特産品奨励事業は結果として松江藩の工業、商業の発展に貢献したと言えるでしょう。

宿老朝日丹波は藩財政再建の頃合いを見計らって、何度も隠居を願い出ますがその度慰留され、70過ぎにようやく御役御免となりました。やはり優秀で一本筋の通った方は放っておかれないのでしょうね。

名宰相として後生に名を残した朝日丹波ですが、財政再建後の不昧の散財にはあまり口を挟まなかったと云われております。不昧は徳川宗家から警戒されないようにわざと道楽者、数寄者を装っていたとの説もあります。(親藩でありながら結城秀康系の越前松平家は宗家から常に警戒されていたらしいです。)そういった中でも雲州人参はしっかりと松江藩財政を支えていたことでしょう。

現在我が国の高麗人参の生産者は、手間や時間の問題、後継者の問題で、かなり減少しているそうです。

松江市大根島は中海に浮かぶ小さな島で、現在では世界的に有名な、最高品質を誇るブランド高麗人参の産地です。(牡丹も有名です。)

高麗人参にまつわるお話でした。

※(注)かつて高麗人参は薬用人参と呼ばれていたこともありましたが、その薬効については現在でもはっきりしたエビデンスはありません。本記事は高麗人参の薬効を宣伝、保証するものではなく、あくまで高麗人参のエピソードについて記述したものです。





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