東北のある村にヒデヨさんという老婆がおりました。
秋のある日、稲の散切干(刈り取ってまとめた稲の束を干す)の作業の終わりに差し掛かったころ、夕立が降ってきそうになりました。人手もなく、気をもんでいたところ、通りすがりの2人のお侍さんが手伝ってくれました。
この地域では収穫を手伝ってくれたお礼に、新米で福田餅をこしらえて ふるまうという風習がありまして、ヒデヨさんはたいそうありがたく思い、「お餅を届けたい。」とお侍さんにお話しすると、「お城の北門へ」と言われました。
ヒデヨさんは獲れたての新米でついた福田餅を33個丸めてお城まで持っていきました。
北門の門番は話を聴いていたらしく、お城の奥へ、そのまた奥の奥へ通されました。そこにいたのはまさしく、この間手伝ってくれたお侍さん。
「お殿様じゃったぁぁ。」ヒデヨさんは腰を抜かすほどびっくりしました。
畏まる(かしこまる)ヒデヨさんにお殿様は優しく話しかけます。
「献上品確かにいただいた。働き者の其方に褒美をとらせよう。」
ヒデヨさんは銀5枚を賜り、夢のようなときを過ごしました。
家に戻るとさっそく、嫁いだ娘にお手紙でことの次第を話し、「このご褒美の記念に」と、特製の足袋を贈りましたとさ。
◇
おわりに
このお話は米沢藩遠山村(現在の山形県米沢市遠山町)でのお話で、ヒデヨさんのお手紙、足袋は現存しております。
そのお殿様とは名君「上杉鷹山(治憲)公」です。鷹山公は質素倹約を自ら実践し、傾いていた藩財政を立て直し、米沢藩中興の祖として今も大変尊敬されています。歴代の藩主の中で「公」の敬称で呼ばれているのはおそらく鷹山公だけではないでしょうか。
さて、暴れん「某将軍」のように、一般の武士となってお忍びで領内を視察することなど本当にあったのでしょうか?全国的に見てもそのような記録が事実として残っているのは珍しいとされています。
この出来事は、家老莅戸善政の記録と、ヒデヨさんのお手紙で、おそらく真実であろうとされています。なにより米沢市遠山町には「籍田の遺跡」というものがありまして、鷹山公が農業、耕作を奨励するために自ら田を耕したという(籍田の礼)記録が残っています。
「籍田の礼」とは古代中国の周の国で行われた儀礼で、君主自ら田に鍬を入れ耕し、収穫した米を祖先に備えたことから始まったものです。鷹山公は、凶作などで困窮し、働く意欲を失ないかけていた米沢藩の農民を奮起させようと、自ら「籍田の礼」を行い、その儀式と精神は後の代々の藩主に引き継がれました。収穫した米は春日神社、白子神社、上杉神社などに奉納され、残った米は下級武士に配られたそうです。
別のお話で「民の竈」という話があります。
第16代天皇の仁徳天皇が即位後、国を見渡そうと高台に登ってみると、人家のかまどから炊煙が立ち上っていないことに気づかれました。 そこで租税を免除し、民の生活が豊かになるまでは、お食事もお召し物も倹約され、さらに、宮殿の屋根の茅の葺き替えもしなかったとの逸話が残っています。
民の倹約を強いる以上、リーダー自らが襟を正し、それを実践する。
現代社会でそれができる方、どれくらい いらっしゃいますでしょうか……。
◇
さらに驚くことに、農家のヒデヨさん、字が書けたんです!このお話は江戸時代中期、安永年間(1772~1781)あたりの出来事と推測されています。米沢藩が比較的高い教育水準だったことを物語る、貴重な資料でもあります。
手紙の最後に、「詳しいことはまた正月に来た時に話しましょう。」と書いてあります。ヒデヨさんにとって幸せなお正月が迎えられたことでしょう。
みなさまにとっても良いお正月でありますように(*´ω`)🎍🍊
※福田餅は「きな粉餅」、「丸餅」など諸説あります。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?