論文を終えた日々、日記。

如月もはや終盤に差し掛かってしまった。つい最近明けたと思った2023年が、既にその六分の一を終えようとしている。今月は何を書こうかとぼんやり考えながら、本棚で発見したさくらももこのエッセイを久しぶりに読み返してみた。今回の記事は少し日記じみた話にしようと思う。

思えば、自分の活字は小学校5年生の頃、彼女のエッセイから始まった。それまでも、小学校の図書室にあるような「デルトラ・クエスト」やら「ドラゴン・スレイヤーズ・アカデミー」などを読んではいた(後者の方が好きだった)し、科学雑誌の「Newton」も好きだった。しかし俗にいう「大人も読む活字」に触れたのは、『ももこの話』だと記憶している。そこから沢木耕太郎『深夜特急』、有川浩『阪急電車』などを経た。もう10年以上も前の話だ。ちなみにこの間に、村上春樹の『1Q84』も齧ったが、男女が同じベッドで寝ることの意味も分からなかった小僧の理解力では意味不明に終わってしまった。だから内容すらも覚えられていない。

「流れる水」を書きたい

水の流れは美しい。目的地に向かって真っすぐ、あるいはその時々で道を変えながら、しかし流れは途切れることはない。たださらさらと流れ、すっと目的地に入り込む。そんな文章を書けるようになりたい。法学部にいた時代、先輩から「君の話は全てが「要するに」で構成されている。換言すれば、非常に端的でまとまりがあってわかりやすい」と言われたことがある。しかし、それはまさしく筆者自身が「そうなりたい」と思っている姿であり、また、未だ至っていない、と自覚するところである。書き連ねる文章だってそうだ。エッセイから活字に入り、現在もnoteという形でエッセイ(にも満たないようなチープな文章だが)を書く身として、同じ趣味を持つ友人や同業者諸兄らの文才に惚れ惚れしているところである。

簡単に読め、すっと体に入り込み、すとん、と腑に落ちる文章。賛否は別に、その描写が、趣旨が容易に伝わる文章。それでいて素っ気ない感じでもなく、目立たない程度に飾られた文章。文豪の分ほど華美でなくてよいので、読みやすい文章が良い。目指すべくは、これまで読んできたエッセイストや作家たちのような洗練された文である。

「論文の日々」を終えて

1月30日に大きな論文の執筆を終えた。これでもう、毎日睡眠時間だ徹夜だを考えなくてもよくなった。日々に少々の余裕ができた。と思ったら全くのウソだった。要するに「論文を書き上げたら…」とここ1年程先延ばしにしていた、ありとあらゆる事象が一気に流れ込んできた。いや、忙しさが完全に同じかというと、それは否だ。ただしこれはあくまで肉体的な忙しさであり、数値化のしにくい精神的な忙しさは随分と楽になった。しかし、根本的な睡眠時間問題、移動距離問題が解決されない以上、もう暫く戦いは続きそうだ。


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