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日記#47


帰りの道で書きたいことが浮かぶけれど
ここに来て文字を打つと自分の至らないタイピングのせいで
ことばがあたまから離れていくのがわかる。

帰り道に思いつく言葉や思いや考えをどうやって残せばいいのか、、
独り言のように呟きながら歩きたいところだが
これ以上に変なひとにはなりたくないという羞恥心で
なによりも大事な閃きを手放していまっていて本当にもったいない。

ここ数日の様子は日々の日記で書いている通り、なんの変哲も無いものだが
やはり哲学的な話を後輩としてからは、どうも感覚が不思議である。

体感時間が5倍は短くなった。

とりあえず、思い出しながら帰路に浮かんだことを記録しておこう。

最近はゴミからゴミを産むという1日1個の課題に取り組んでいる。
ごみと呼んでいるが、ゴミではない。
"わたしにとって"ということはたいへん重要で、そしてそのゴミをみたひとにとっても、なんだこれはというものでなければならない。

そういう痒いところに手が届くような、感覚を取り戻したいし
身につけたいので、ごみからごみを産む。

すでにこの世には美しいものが多い。
整ったものは、私ではないだれかが作ってくれるのでいい。

私は、あまりもの、はずれたものからなにかを作りたい気持ちがある。

意味のないものをつくりたい。
そのために1年前に先生と約束したことをこの感覚とすこしの余裕があるうちにやっておきたいのである。

なにもすごくなくていい。
ただ歳をとって老人ホームとやら施設にはいったとして
なにかしらの制作をしている老婆でいたい。

アールブリュットとなる、純粋なアートを日々の生活にしていたい。
そういう憧れがある。

かわいいものではなく、愛くるしいもの。
整ったものではなく、無垢なもの。

そういった誰かのなにかに触れるものを狙いたいわけでもない。
そのあいまいな部分を見抜くには、と街を観察する。

制作をしているとわかる。
勇気がないこと。

勇気がなく、あるものをないと言ってしまうこと。
自分のプライドの高さだ。

でもまずは出さないと。そう知っていた。
だからそれを見せても大丈夫そうなひとに一度みてもらおう。

街を観察していると、なにがなんだかわからなくなる。
木々が風に揺れているが、これは私が見ているからであって
だれかの体のなかでたとえたら、体液という水中に揺れているようなものではないか。

こういうふうに見えているものは、存在しているだけでなく
事象も、ときにわたしになにかを教えるようにうどめいているような気がしてならない。

なぜひとは草木は枯れるのか、ヒトは死ぬのか、そしてどこへいくのか。
灰になって、粉々になって、生まれ変わるのか

なら人間がいい。
でも人間は難しいらしい。
前世で精一杯徳を積まないと。

そういうことだから、ひとに優しく
いつでも微笑みを。

不順なようで、真っ当な理由。
それでみんなが嬉しいなら、いいじゃないか。

なにが不満なんだ。

個体差がないと、そういうことのありがたみにもきっと気づけやしない。
なんとも歴史は繰り返される。

やらかして、反省して、だから自分は生まれ変われるのに。

失敗せずに生きるなんて、ただの小手先だ。

わかりやすさは、わたしには似合わない。

結婚、出産、育児、お金。
どれも欲しく無いわけではない。

でも、真面目なので、
そういった名前にはまったときに
ちゃんとしなきゃと思う。

それは私と相手を苦しめる。

それを私は知っている。

ずっと欲しかった、カメラ、アイパッド、服、美容。

どれも試したけれど
使いこなせない。

これが私の性質。

飽きてるというだけでなく、ただわかりやすくそれが欲しくて囚われていただけ。
いつもそう。

だから、パートナーを手に入れても
きっとそういうことなのをもう知っている。

自分のことなんだから。

相手を大事にするために、私は私で判断する。
きちんとこれを伝えて
私の興味・関心を面白がってくれたら、それは本物な気がしている。

自分はだれかの体内にいるかもしれない。
だとすると自分は自分の人生を生きているようで、自分の人生を生きていない。
けれど自分が生きていないと、だれかの人生もまた変化する。

ならば仮定する。

証明をするために。

その段階にいる。

そう仮定すると、自分の人生はどうでもいいようで、
どうでもよくない。

よくわからないので、仮定する。
仮定をしていきる。

なにもわからないのはわかったので、そういうふうにあいまいに生きることにする。
そうすると案外なにも怖くなくなった。
楽になった。

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