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教皇フラグ[後編]

第三章

第四章

「早まっちゃダメ!!!!」

後ろからそんな声と同時に、同い年ぐらいの女の子が、おれとあかりちゃんを引き寄せた。

妙に身体が冷たい。
川の流れる音と、女の子のゼェハァという肺から漏れる吐息が聞こえ、おれは我に返った。

街頭もほとんど光を通さない薄暗い夕闇の中で、三人はびしょ濡れになっていた。

ふと自分がどこにいるのかと、何をしでかそうとしていたのかの重大さに気がついた。

そこは、河川敷だった。
気がついた時には、25mプールほどの幅がある川に入水しようとしていた。
自分自身も自我をなくし洗脳状態に陥っていたことに、サーッと血の気が引いていった。

「なにしてんのよ!」

はぁはぁと肩を揺らしながら、たすけてくれた少女は言い放った。

「ごめん。」

おれは、ひと言しか返せなかった。
抱きかかえていたあかりちゃんは、気を失っていて、ガックリと項垂れたようにおれの肩に身を預けていた。

「まったく、入水自殺なんて時代錯誤も甚だしいわ!」

関西訛りを感じさせるイントネーションで彼女はそう言って、おれは他人事のように「確かにそうだね。」と呟いた。

からだが冷え切っているのと、再度発症してしまったことへの暗い憂鬱感が一気に押し寄せてきて、心が折れそうだった。

「その様子を見ると、事情があるんやろ。こんなとこに居っても寒いだけやから、その子も連れて、一旦あったまりに行こ。」

そう言って、おれに立って歩くよう手を差し伸べてきた。
おれは、その手を受け入れながら、
「ありがとう。だけど、この子を連れて家に帰らないと。」と答えた。
彼女は怪訝そうに顔をしかめた。

「親にバレてもええの?」

彼女が懸念していたのは、今回の俺たちの行動をいかにバレないよう穏便に済ませるかだった。

ふつうの考えなら、揃って自殺を図る行動を親になんて知られたくないはずだった。

「いや、むしろちゃんと話して、病院に行かなきゃいけない。」
「助けてくれて、本当にありがとう。家までの道はわかるから、それじゃあ。」

そう言って、おれは足早にその場を立ち去ろうとした。あかりちゃんのことも心配だったが、それ以上に二次災害を起こしたくなかった。

「ちょっと、待ちいや!私もあんたがちゃんと家まで行くんか心配やから、付いてく!」

そう言って、彼女は同行しようと駆け寄ってきた。数回の押し問答の末、「絶対ついていくから!」と彼女の気迫に負けて、同行を許した。

家までの帰り道に、彼女はいくつか質問をしてきた。敢えて核心には迫らず、遠回りして事態を推理しようと、彼女との関係、家族のことまで聞いてきた。

おれは手短に答え、彼女は聞いてもいないのに自分の素性を明かした。

「私、内名蓮って言うねん。うちなーってよく関西の人が言うやろ。それと名字被ってるのが嫌で、私呼びやねんけどな。中学からこっちに転校してきて・・・。」

蓮は、口だけが生き急いでいるような早口で、自分の歴史を語った。

そんな会話をしている間に、家に着いた。
家のインターホンを鳴らして、「母さん、おれ。」と重い雰囲氣で呼びかけると、母はバタバタとドアを開いた。

順番におれと、気を失っているあかりちゃんと、蓮、そして身体が濡れている様子を見て、瞬時に事態を把握した。

「すぐにタオル持ってくるから、上がって待っておきなさい。」
そう言って、俺たちを招き入れた。

「先生に連絡入れたから、その子たちも連れて病院にいきましょう。あかりちゃんの家には私から話をしておくから、心配しないで。」

母は手際良く、タオルやら温かい飲み物やらを準備しながら、父と病院の先生にも電話をして、次に取るべき最善の行動を選択していった。

「母さん、こっちの子は、たぶん大丈夫。」

おれは、そう言って蓮の方をチラリと目配せした。

「万が一もあるから、一緒に診てもらいましょう。」

おれはそう言われて、温かいお茶を啜りながら「うん。」と言った。

「なんか突然お邪魔してすみません。私、全然わかってないんですけど、ピンピンしてるんで一人で帰れますよ!」

蓮はどこか怪我をして、それを心配されたのではないかと思い、明るい口調で言った。

「ありがとう。でも、もう外は暗いし、女の子一人で帰すわけにもいかないわ。一応、病院で診てもらって、すぐに車で送るからね。」

母は内心震えながら、努めて明るい口調でそう返した。
--
病院に着くと、先生が急いで診断の準備を始めた。
気を失ったままのあかりちゃんは担架に載せられて別の検査室に運ばれ、蓮も別のところへ連れていかれた。

おれと母は会議室に通され、そこで何が起きたのか顛末を話した。

母は涙目になって、声も震えていた。
「先生、この子はもう大丈夫だって、診断してくれたじゃないですか!!なのに、どうして!?」

我慢できずに母が叫んだちょうどその時に、父も血相を変えて到着した。

先生は、そんな父と母を必死になだめながら、「申し訳ありませんが、今は検査をしてみないと分かりません。」

「でも、声変わりもして、もう問題ないってあなた達が言ったじゃないですか!それなのにまた検査検査って、私たちは起こってしまった事に対して調査して欲しいわけじゃないのよ!」

母は完全にタガが外れて怒鳴り散らし、そんな姿を見かねた父は、肩をさすりながら落ち着かせようと母に寄り添った。

「確かに、声質が改善されていたのは間違いありません。それでも、今回の件は、相手のみならず、自分さえも洗脳して暴走してしまった。それほどまでに強い状態を作り出してしまった何かを突き止めなければ、また同じ過ちを引き起こしてしまうでしょう。」

先生は、自分のアゴを、まるで猫を撫でるように優しくさすりながら、そう言って考え込んだ。

「天秤」

しばらく沈黙が続いたあと、徐に思いついた事が無意識に口をついてでた。

その場にいた全員が、おれの方を見つめる。

「いま、なんて?」

「あ、いや、ちょっと思っただけです。感情って天秤みたいだなって。」

母も父もキョトンとしていたが、先生だけは興味深くこちらを見ていた。

「高校に入ってから、治ったもんだと思っていたから、それなりにクラスメイトとも話すようになれたし、でも、それで洗脳状態?みたいなものは発症しなかったわけなんだよね。なのに、あかりちゃんには発動しちゃって、小学校の時も好きとか嫌いとか、そう言う極端な話のときにそうなったから、なんか天秤みたいだなぁって。」

おれは咄嗟に出た言葉の意味を思うがままに説明した。
ひとしきりおれの話を聞いたあとに、両親はクルッと先生の方へ顔を向けて、「どうなんでしょうか?」と尋ねた。

「これは臨床心理的分野なので、専門的なことは私の口から告げられませんが、一般的にそういった人、つまり、何らかの負の感情や不安定な状態の人たちの方が詐欺や病にかかりやすいということは言えるでしょう。」

「例えば、自分は絶対に大丈夫と思う人ほど鬱病になりやすいことや、催眠にかかる訳がないと自負している人ほど容易く催眠状態に陥りやすいなど。」

先生は、そこまで話をして一旦話を切り、「今回の件も踏まえ、然るべき専門家に話を聞いた上で、ご報告させて頂きます。」と言って、席を立った。

おれも両親もその先生の振舞いにならって席を立ち、退席した。

あかりちゃんの事は、両親がうまく説明しておくと言い、「心配しないでね。」と優しく声をかけてくれた。

病院の出口で待っていたのは、蓮だった。
父は気を利かせて車を回し、彼女を家まで送る準備をした。

車内は、また例の如く重い空気が流れていたのだけれど、蓮の陽気な関西弁で少し空気が和らいだ気がした。

「いや、ほんま色々身体触られまくって変な感じやったわ。あれ、なんなん?MRIっていうの?初めてやったし、なんか脱出ポットにでも入って、このままどっかに発射されんのちゃうかなって、内心ドキドキしたわ。」

蓮は終始そんな感じで、たまに笑いを誘い心配かけまいと振る舞ってくれていたのが嬉しかった。

社内のラジオからは、臨時ニュースで囚人が脱獄したやら、高速道路の渋滞情報やら、前と同じ落語の続編CMが流れていて、「わたしこの人嫌いやわぁ。」とたまに蓮が呼応していた。

そんな風にして、前回の帰路よりも幾分賑やかな車内の時間が過ぎて、蓮を送り届けた後、おれと両親は改めて家族会議を開くことにした。

時計はすでに明日になろうとしていたが、今回のことで早急に話をしようという話になった。

話し合いの中で、「普段どおりにしていいからね。」と、母が悲しそうな目をしながら、それでいて精一杯口角だけは上げておれに微笑んでくれた事が、一層自分を惨めにした。

結局、今付き合っている友人関係はそのままに、新しく知り合うきっかけになった人たちには気をつけようと言う曖昧な結びで家族会議を終えた。

時計は1時半を指して、「もう遅いから今日はゆっくり休みな。」と父は背中越しに声をかけてくれた。

「あの子は、どうすればいい?」

ふと自分の部屋に戻る間際によぎった蓮のことについて、おれは尋ねた。

「彼女は、そうだね。でも、被害者でもない訳だし、かと言って今後のこともあるから、ちゃんと事情を伝えた方がいいんじゃないかな。」

父はそう言って、母の顔色を伺い、母は仕方ないとでも言いたそうな表情で深く頷いた。

「わかった。」

「おやすみ。」

おれは二言だけ喋って、自分の部屋に戻っていった。

今日一日で何十年分くらいの生を一気に使った気がして、ベッドに倒れ込むや否や、着替える間もなく眠りについた。

こうして、おれは家族以外に唯一、自分の内情を共有できる相手ができた。

幸か不幸かは、今でもわからない。

蓮とは、それから連絡を取り合って、自分の身に起きたこと、これまでのこと、病院での検査の事情や自分の交友関係を洗いざらい話をした。

今までひとりで抱え込んでいた分、打ち明けてみれば、まるで借り物の口のように、スラスラと喋り出して、全て話終わる頃には、なんだかスッキリした気分に陥った。

蓮は終始、オーバーなリアクションで、「え、そうなん!?」とか、「ほんまに!?」とか、「大変やったなぁ」とか、本心か建前か分からないぐらいの相槌を打ちつつ、それでも目だけは真剣におれの方へ向き合って話を聞いてくれていた。

「私もな、実は言わなあかんことあんねん。」

ひとしきり、おれが喋り終えたあとに蓮はそう言った。

「実は、わたしあんたと同じ学校通ってて、しかも隣の隣のクラスやねんで。」

今思えばそんな大した秘密でもなかった割に、おれはかなり驚いて身体ごと揺らしながら蓮の方へ向いた。

その様子を見て「知らんかったやろ〜。」とニタッと笑いながら指をくるくる回しておれに向けた。

蓮の素性をそういえば全く知らなかったことに、今さらながらおれは気づいた。

川で助けてもらった時も、その時のことで頭がいっぱいになっていて、蓮の事を知る由もなかったし、自分の過去を話してスッキリしてしまったがゆえに、彼女の話を全く聞けずにいたことを思い出した。

「そうだったんだね。ごめん、全く気づかなかった。」

そんな失礼なおれに対しても、蓮はプイッと顔を背けつつも、「ええよ、ええよ。」と軽く流してくれて、その軽さにだいぶ救われた。

「蓮、今話したことはくれぐれも他の人には話さないで欲しいんだ。家族にも、もちろん君の親友にだって。」

「わたしそんな口が軽いように見える?失礼なヤツやなぁ。」

蓮はそう言って、おれの脇腹を小突いた。
なんだか秘密を共有できるだけで少し嬉しくなって、おれは声をあげて笑った。
蓮もそれに釣られて笑い声をあげた。

自分にとって必要だったのは、おそらくこういった関係だったんだなぁと、その時思った。

信頼できる誰か、それは性別も関係なくて、しまっておくべき秘密を誰かと共有できた時に、初めてそれを友情と呼べるんだと肌身で感じた瞬間だった。

それから数日は季節風邪という理由にして学校を休んでから、また登校するようになった。 

第五章


当騒動の被害者のあかりちゃんは、案外ケロッとした様子でクラスに居た。
あの日以来、直接会話をしては居なかったが、まるでおれのことを避けているような、存在を忘れているような、ともかく俺と関わらないようにしていた。

疎遠な俺たちを見て、仲の良かったクラスメイト達は、「どんまい、今日はなんか奢ってやるから、また明日も学校こいよ。」と慰めの言葉をかけてきた。
どうやら、おれが失恋したショックで学校を数日休んでいたものだと噂されていたらしい。
それはそれで、後の始末が楽だったので、そういうことにしておいた。

久しぶりの学校はやはり楽しかった。これまでの友人たちと気兼ねなく話ができる。それだけで、小学校の時とは打って変わって、ポジティブになれた。
友人関係で変わった点とすれば、蓮がたまに昼休みの購買へ誘いにきたり、放課後に一緒に帰るようになった。
周りからは、「お前心変わり早いな。」と茶化されたりもしたけれど、おれ自身にとって特別な感情はなく、蓮は唯一秘密を共有できると言う意味では、確かに代え難い存在であることは確かだった。

学年が変わって、蓮が別のクラスメイトであっても、その関係は変わらなかった。

彼女とは、他愛もない話をたくさんした。
物理の先生と化学の先生は犬猿の仲なのだとか、今の高校には実は旧校舎があって、その道に繋がる扉が実は隠されているんだとか、七不思議のようなオカルトなものから謎の推論まで、蓮はとにかくよく喋った。

それでもたまに、夕焼けがきれいな時には、近い未来の進学の話や、どんな大人になれるのだろうかとか、深い話も2人で話した。

おれは「自分の身体のことさえ、分からないのに、未来のことなんて考えられないよ。」と言いながらも、内心はこういう風景がずっと続けばいいのにと願っていた。

蝉の鳴き声がチラホラと聞こえてきて、夏休みがもうすぐ始まろうとしていた。

その日は、夏の日照りと梅雨明けのじめっとしたなんとも過ごしにくい日曜日だった。

学校が休みだったおれは、蓮と参考書を買いに出かける約束をしていた。

茹だるような湿気混じりの気温に息のしづらさを感じながら、朝食に差し出されたジャムトーストを頬張ってテレビを見ていた。

そういえば、蓮と何時にどこで落ち合うかを決めていなかったことを思い出し、彼女に連絡をする。

テレビでは、まだ早いサマーシーズンの到来とともに、いかにも青春のような海の映像と水着特集が映し出されていた。

高校生の時分くらい、おれも友達と一緒に行楽へ出かけたいと思いつつ、そんな事を口に出せば母は心配してしまうなぁと、子供ながらに老婆心が幼心をくすぐっていた。

しばらく経って、トーストを食べ終えた俺は、一向に蓮からの連絡がこないことを不思議に思った。

「まだ寝てるのかな。」

携帯を見つめながら、ボソリと呟いた時、テレビから臨時ニュースが流れた。

「えー、番組の途中ではありますが、ここで臨時ニュースを放送します。」

さも採れたての情報にあたふたしているアナウンサーの様子が伺えて、おれは少しニヤけながらその放映を横目に見ていた。

「先日、強盗殺人容疑で収容された鳥谷洋司被告の脱走事件で、現在容疑者は××市内のマンションにて立てこもっているとの情報が入ってきました。」

「現在、容疑者はマンションにて、同室に住む女子学生を人質にとり立てこもっている様子です。現場から中継をお繋ぎします。」

そう言って、そこに映し出されたのは、見覚えのある並木道と、何度か訪れたことのあるマンションだった。

おれは愕然として、椅子を思い切り押し除けて、テレビに齧り付いた。

「鳥谷容疑者は、昨晩深夜2時ごろに同マンションへと忍び込み、鍵のかかっていなかった内名さん宅へ侵入したとのことです。マンションの防犯カメラには、鳥谷容疑者の姿がしっかりと映っており、現在も同室の内名蓮さんを人質にとり、立てこもっているとのことです。」
中継先のリポーターが、聞き覚えのある名前を読んだところで、一気に血の気が引く感覚を覚えた。

「そんなに前で見たら、目悪くするわよ。」

リビングの入口の方から、洗濯物を終えた母が声をかけた。
「どうしたの?」と、振り向いたおれのただならない表情を見て、母は訝しげに尋ねた。

「こ、これ・・・。」

頭がぐちゃぐちゃになって、言葉がうまく出ない。震えながらおれはテレビを指差した。

ガタン。

母は持っていた洗濯物かごを落として、一目散に父を呼びにリビングを出た。

「お父さん!!蓮ちゃんが!!」


そんな叫び声が家中にこだました。

おれは、震えている自分の指を強く握り、「落ち着け、落ち着け、落ち着け。」と呪文のように唱え、頭を整理しようと努めた。

テレビからは、慌ただしく動く現場の様子とマンションが映し出される。

身体の震えがひとまず落ち着くと同時に、蓮の心境を慮ると、自然と涙が溢れてしまった。

昨日の夜から、どれほど心細い時間を過ごしているのだろう。
彼女は、幼い頃から片親の父と暮らしていることは蓮から直接聞いていた。
休日も父は出張で居ない日が多いけれど、自分のために頑張っている父が誇らしいと、蓮はいつか目をキラキラさせて語っていた。

そんは健気な彼女に、こんな仕打ちはあんまりだと神を恨まざるを得なかった。

「えー、警察によりますと、鳥谷容疑者は逃走用の経路の確保、まとまったお金、そして、車の手配を要求しているとのことで、自分の安全が確保されない限り内名さんを解放するつもりがないこと、時間内に解放されない場合は彼女を殺害するとの予告も発しているとのことで、現場は緊張感が高まっています。」

リポーターの説明を聞き終える頃には、気がついたら足が玄関の方へ向かっていた。

「待ちなさい!」

靴を急いではいたところで、後ろから父が声をかけてきた。

「どこに、行くんだ?」

普段は優しい父が、珍しく荘厳な口調で尋ねる。母は肩を振るわせながら父の背中からじっとおれを見つめていた。

「蓮が危ないんだよ!こうしてる間にも、怪我をしてしまうかもしれない!もしかしたら、死んでしまうかもしれない!」

おれは町中に響くようながなり声で、そう訴えた。

「お前に何ができる!!」

父は負けじと声を張り上げて、空気を締め付けた。

おれの身体は父の声にすくんだが、目だけは強く父を見つめて、フーッと猛牛のような荒い鼻息を吐いた。

「いいか、お前はまだ子供で、この件は大人が総出で事にあたっている。だから、きっと大丈夫だから、蓮ちゃんも大丈夫だから、お前まで危険な目に遭う必要はないんだよ。」

父は息を整えながら諭すように言った。
母はすでに涙を堪えきれずに後ろで泣いていた。

「それでも。」

「それでも、蓮はおれにとって唯一秘密も全てさらけ出せた友人なんだ。大切な友だちなんだよ。」

「だから、そんな大切な人が怖くて怯えている状況を黙って見ていられるほど、強くはないよ!」

そう言って、おれは踵を返し、思い切り玄関のドアを開けた。

「黙って見ていられるのが大人なら、大人なんてクソ喰らえだ!」

涙混じりの声をあげて、街へ出た。
父と母のおれを呼ぶ声が鼓膜の片隅で反響していた。

--
「・・・きなさい。・・・から、・・・しましょう。」

息が切れ、肺が爆発しそうなほどの痛みを覚えながら蓮のマンションの通りに差し掛かると、拡声器の電子音と警察の声が聞こえてきた。

ハァハァと吐く息が初夏の湿っぽい空気と混じり合って、うまく吸い込めない。

両膝に手をついて、顔だけは前を向き眼光鋭くゆくさきを見据えた。

通りは二車線の道路なのに、所狭しとパトカーや報道の車で埋め尽くされていた。

息を整えながら、蓮のマンションの方を見つめ、煌々と光るパトカーのランプの側まで寄詰めたところで、警官に肩を掴まれた。

「きみ、危ないから下がって。」

おれは掴まれた手を掴み返すようにして、
「彼女は大切な友人なんです。」と答えた。

関係を理解した警官は、心配させまいとおれの目線まで膝を落として子供をあやすように両肩に手をおいた。

「そうか。安心しなさい。僕たちが必ず君の友達を助けるから。」

なにが必ずで、なにが安心なのか、おれにはちっとも理解できなかった。

「いつ蓮を助けられんだよ。一晩も経ってるんだぞ。大体、あんたらがしっかり捕まえてればこんな事にもならなかったんじゃないのかよ!」

お門違いな怒りの矛先だとわかっていても、声をあげられずには居られなかった。
涙で喉がつまる。

警官は辛そうな顔をして、じっと耐えていた。

「えー、警察からの情報によりますと、犯人から要求されたものは予定通り準備され、これより犯人と接触する予定とのことです。」

後ろでリポーターの情報が伝わる。
ハッとして、おれは蓮が住んでいる部屋の方を向く。

地上から見えるベランダには変化は見えなかった。

警察側の動きが忙しくなった。
拡声器を持っている交渉人と伝達係の警官がなにやら話をして、段取りを確認している。
部屋からは見えないマンションの壁面に特殊部隊が壁をつたって侵入を試みようと準備している姿が見えた。

「鳥谷さん、お待たせしました。あなたの要求したもの全て用意できました。なので、一度顔をこちらに出してお話できませんか?」

拡声器から犯人に向けて告げられた。
周りも一層静かになり動向を伺う。

部屋の中から物音が聞こえ、部屋のカーテンが開いた。
窓から、犯人が顔を覗かせる程度に姿を現した。

「本当に用意できたんだろぉなぁ!?」

ろれつがうまく回らないような喋り方で犯人は叫んだ。

「えぇ、お金ならここにほら。指示された通り、車だってあります。なので、まずは内名さんの姿を見せてもらえますか?」

交渉人の警官は、相手を刺激しないよう慎重に柔らかく答えた。

蓮の名前が聞こえ、おれは唾を呑む。
犯人はイラッとしながら、充血した目で金と車を交互に見つめたあと、部屋に戻っていった。

しばらくして、犯人が乱暴に蓮を連れ出して姿を見せた。

「たった今、人質の内名蓮さんが姿を見せました。」

後ろの方でリポーターの抑揚がついた声が聞こえ、嫌気がさした。

蓮はぐったりとして目は虚だったが、それでも外に出た瞬間、キョロキョロとあたりを見渡していた。

おれもグッと前のめりになって、彼女の姿を見て、「蓮っ!!」と叫んでしまった。

その声にビクッとした彼女は、おれを見つけて、ニコッと笑いかけた。
「わたしはまだ大丈夫、心配せんで。」そう伝えているかのようだった。

犯人が「おいっ」と蓮の腕を引っ張り、自分の身体のほうへ引き寄せる。

「無事なことは確かにわかりました。それでは、約束通り車とお金はこちらにあるので、彼女を放してもらえますか?」

「はぁ!?おれは逃げるための道を確保しろって言ったんだよ!こんなところに車を置いて、コイツ離したらすぐに捕まえようとする魂胆が見え透いてんだよ!」

犯人は、蓮の喉元にナイフをチラつかせて、怒鳴った。

周りが一瞬静まり返り、おれは握り拳をより一層固く握り締めた。

「ヘリを用意しろ!!そうじゃなきゃ、コイツは殺す。」

犯人の要求は無茶苦茶だった。
こんなマンションの並ぶ並木道にヘリなど到底呼び用がないことは明白で、警官の間でも動揺が見てとれた。

「落ち着いてください。ここにはヘリは降ろせません。ですが、あなたの要求通り、わたしはあなたを逃すことをお約束します。ですから、まずはそのナイフをしまって・・。」

そう拡声器越しに交渉人が訴えている最中に、「話になんねぇ!」と犯人はまた叫び部屋の方へ蓮と一緒に引っ込んでいった。

「あと1時間だ!それまでに用意できなきゃ、コイツは助からないと思え!」

そう言って、窓をピシャリと閉めた。

現場では警官たちが上からの指示を仰ぎながら、どう打開したものか会議が開かれていた。

壁伝いに登っていった特殊部隊も指示を待ち待機しているような状況だった。

「なんだよ。結局、蓮を助けられないのかよ。」

おれは警官の組織的な動きの鈍さと対応に苛立ちながら、自分の不甲斐なさに落胆していた。

自分なりに色々と考えた結果、蓮を助けられる試す価値のある方法を思いついていた。
しかし、それは賭けにも近いもので、成功するかもわからないし、ましてや、それをやってしまえば、もう今までのような関係を蓮とは続けていけないだろうという事も薄々勘づいていた。

10分が経ち、20分が経ち、あたりは一向に解決の兆しが見えないまま残酷にも時間だけが過ぎていった。

ただ、かえってその状況こそが、おれに決心をさせてくれた。

おれは握っていた拳をほどき、群がる警官たちを押し退けて、拡声器を持っていた交渉人のところまで駆け寄っていった。

「なんだきみは?」と威圧的な態度を向ける警官から、無言で拡声器を取り上げた。

こんな時になんの子どもの悪戯かと、交渉人含め、周りの警官が「おい!きみ!」と、おれの身体をねじ伏せようと掴み勇んだが、おれはそんな力をもろともせずに、拡声器のスイッチを押し、空高くへ向けた。

カチッ。

「おい!鳥谷!出てこいっ!!!」

あまりの音量に拡声器からピーッと電子音が聞こえて、周りは思わず耳を覆った。

あまりの声量に、何事かと犯人も窓を開け、姿を現した。
ナイフを蓮に突き付けたまま、こちらを見ている。

犯人も蓮も驚いた表情でこちらを見つめ、おれは蒸気機関車のように重たい空気を吐きながら、数秒あちらを睨んだ。

「誰だてめぇは!!コイツが殺されてもいいのか!?」

周りの警官が今すぐにでも辞めさせようと、おれを押さえ込もうとする。

おれは拡声器を離すもんかと、決死の抵抗をみせ、腕を振り回しながら、一言ずつ声をあげた。

「蓮っ!!帰り道に、食ったブタメン、最高に美味かった!初めて、だったし、バカにしたけど、あんなに上手いラーメン、他にないよ!」

「離せよ!」押さえ付けようとする警官にそう言いながら、おれは蓮に話しかけた。

まだだ。

「あとさ、おれお前と会ってから、実はテストの点数上がったんだよ!ボケ担当のお前よりも、いい点数取らないとって思って、ちゃんと勉強するようになってさ!」

蓮は慎重に、静かに、こちらをじっと見つめおれの言葉に耳を傾ける。

犯人の怒りのボルテージは上がっていった。

「聞こえねぇのか、てめぇ!!こいつ、マジでやっちまうぞ!!」

犯人が蓮の首をグイッと持ち上げて、刃先を首にうんと近づけた。
周りの警官たちも「おいッ!いい加減にしなさい!」とより一層強い力で握っている拡声器を奪おうとしていた。

あと少し。


「蓮っ!前に、将来の、話したよな!あんとき、わかんないって言ったけど、ほんとは、このまま、ずっと同じ毎日が続いてくれたらいいのにって思ってたんだよ!」

熱を込めた言霊は、おれの涙腺を刺激して、文字通りぐちゃぐちゃになりながら必死に叫んだ。

「だから、おれは、この先どうなろうとも、蓮、お前を助けるよ!いいよな!?」

最後にそう叫んで、蓮に問いかけた。
蓮も涙を流しながら、首に突きつけられたナイフにキッと口を結んでいた。

「思いっきり、やって!!」

蓮は口を大きくあけて、空に向かってそう叫んだ。

その瞬間、犯人の怒りは最高潮に達した。 

「おまえら、調子乗んなや!!!!」
そう言って、首に突きつけていたナイフを振りかぶった。

その光景を見ていた誰もが最悪のシナリオを頭にイメージした。

いまだ!

おれは大きく息を吸って、思い切りひと言叫んだ。

「膝まづけ!!」










プッツン。
プツン。
プツンプツンプツンプツン。









おれの耳には、そんな怪奇音の波が聞こえた。

身体にのしかかっていた圧力が抜けていき、押さえつけられていあ警官の手が解けてゆく。

目は虚に、蕩けそうな恍惚な表情と、畏怖の念を混じらせた、この世のものとは思えない顔色をした警官たちが眼下に見えた。

「あっ、あぁ、アァ」とゾンビのような呻き声をあげる警官の有象無象に、リポーターは口をあんぐり開けたまま自分の職務を見失っていた。

「何をしている!!!その少年を早く押さえろ!!」

後ろに構えている警護輸送用のバンから、上官らしき人物がその群れに向かって叫んだ。

「私めは貴方さまになんてことを。」
「いっそこの手を切り刻んで赦しを乞いたい。」
「どうかなんなりとご命令を。」
「この身をもって償います。」

方々からそんな声をおれに投げかけた。
教祖さま。救いの主。救世主さま。我らの導き手。

そんな、声が続いて聞こえてきた矢先。

キーン。

と、良く通る金属音の音が響いた。

音の方へ目を向けると、地面にナイフが転がっていた。

おれはすかさず犯人の方へ目を向けた。
犯人は蓮を突き放して、両手をベランダの柵につき、今にも飛び降りそうな勢いで身を乗り出していた。

目からは大粒の涙と、鼻水を垂らし、口からは溢れ出した涎がダラダラと顎を伝って、なんとも不気味な形相でこちらを見つめていた。

「特殊部隊!!確保だ!!」

上官がこの機を逃すまいと大声で叫び、その瞬間、死角に潜んでいた精鋭たちが犯人の場所に群がって取り押さえた。

成功した・・・。

取り押さえられた犯人の姿を見て、おれは安堵し、膝をついた。

膝をついたおれに、狂信者たちがおれの身を案じながら、鬱陶しくも群がってきた。

そんな奴らに構っている暇もなく、蓮の身が心配になって、群がる彼らを振り払ってマンションの中を駆け抜けた。

階段を駆け上り、蓮の家の前に着くと、すでに扉は開け放たれていて、取り押さえられた犯人が手錠をはめられながら、こちらを見てきた。

「きょ、きょうそ、さまぁァ。」

水分をすべて枯らしながら出したその声は、コウモリの泣く声のような金切り声に似た不気味さを帯びていた。

おれはそんな犯人を無視して、蓮を探した。

「少年、危ないから離れなさい。」

特殊部隊の1人がそう言った。

「蓮は?」

「大丈夫、気を失っているだけだよ。」

そう言って、横たわっている蓮の姿を確認した。

緊張の糸が切れたのか、蓮はなんとも気持ち良さそうに眠っていた。

その姿を見た瞬間、一気にこれまでの疲れがやってきて、目の前が真っ暗になった。

第六章

目が覚めると、よく知っている病院の一室に横たわっていた。

ベッドの脇に母が涙で目を腫らしながら、丸椅子に腰掛けていた。

「母さん・・・。」とおれが声をかけると、びくっと肩を上げ安心した表情でこちらに微笑みかけた。

あれから、丸一日眠っていたと母が教えてくれた。病院側も今回の一件で警察からの詰問対応に追われ、メディアが今回の件を大きく取り上げたことで、父はその対応に駆り出されていると母が説明してくれた。

今回の件で、おれの病気のことが恐らく世間に広く知れ渡ってしまうだろうと、母は「守ってあげられなくて、ごめんね。」と謝罪した。

「遅かれ早かれ、いつかはバレるもんだと思ってたから謝らなくていいよ。」

そう言って、おれは母の肩をもった。
それに、今回の件でハッキリとわかったこともあった。

洗脳状態にさせるためには、やはり感情の揺れ幅が必要だった。
洗脳とは、愛よりも深く相手に依存してしまうこと。
自分でもコントロールが効かないほどの絶対神を植え付けるには、極限までの反対感情が必要だった。
それは、怒りや憎しみが大きな要素となるが、感情が揺れ動く最中に発生するものだと確信していた。

「そういえば、蓮は大丈夫?」

母にそう尋ねると、「蓮ちゃんは大丈夫。ただ、人質にされていた時の記憶はショックで抜け落ちてるらしいわ。」とありのままの状況を伝えてくれた。

「そっか・・・。」
おれは何となく勘づいていた。
これまで洗脳にかけてしまった人たちは、洗脳が解けると、おれの存在をすっかり忘れてしまうということ。
脳が防衛本能として、ごっそりおれという存在を消してしまうのだろう。
医者も両親もその事については、教えてくれなかったけれど、小学生の時に突如転校してしまった彼らや、クラスで何事も、これまでの関係すらなかったように振る舞うあかりちゃんの事を踏まえると、そう推測するのが順当だった。

「明日から少し忙しくなるから、今日は美味しいものでも食べて帰りましょうか。」

母も薄々気づいていたのか、それとも先生から報告されていたが、俺には秘密にしていたのか、どちらかは分からないけれども、悲しみを払拭しようと空元気に笑って励ましてくれた。

「先生呼んでくるね。」

そう言って、母は退室した。

病室にひとり取り残されると、これまでの蓮との思い出が走馬灯のように駆け巡り、目頭が熱くなった。

思い出に時間は関係なかった。
ふたりでした他愛もない話も、唯一話せた秘密も、すべて今回の件でなかったものとなった。

「こんな辛い気持ちになるなら、仲良くしなければよかった・・・。」

心の後悔は、涙と一緒に溢れ出してきた。

病室は初夏を忘れさせるほど肌寒く、冬のような冷たさがまた一層孤独感を煽った。

それから、先生がやってきて「今日は他の対応でゆっくり診てあげられないから、後日ちゃんと検査をしましょう。」と言い、簡易的な問診を終えて帰宅することとなった。

病院の正面口はメディアが殺到していた為、裏口を通って帰るように指示された。

母は「大変だったね。」とか、「よくやったね。」とか、目を腫らした俺を気遣ってくれたけれど、立ち直るにはもう少し時間が必要だった。

俯いたまま裏口へ向かって歩いていると、扉のすぐそばに人影が見えた。

母は、おれを後ろのほうに隠すようにサッと庇い用心した。

「お疲れ。」

聴き覚えのある声が聞こえ、おれは母の手を振り払って声のする方を見る。

そこには、腕を組みながら手を振る蓮がいた。

母も驚いた表情で蓮の方をみて、「どうして?」と呟いた。

「あ、おばちゃんもお疲れさま!なんかめっちゃ大変な事になってるみたいやな!私、昨日のこと全然覚えてないねんけど、ここで待ってたら会えるかもと思って待ってたんよ。」

「待ってて正解やったわぁ。」
そんな呑気なセリフを吐きながら、蓮はこちらに歩み寄ってきた。

おれも母も固まったまま動けずにいた。
そんな様子に蓮は不可思議に「どうしたん?」とキョトン顔でいたのが、不意に可笑しくなってしまった。

「お前、なんで覚えてるんだよ。」

おれはあまりの出来事に笑いながら言った。

「いや、わたし昨日のこと覚えてないねんて!」

蓮は大袈裟に手を顔の前で大振りしながら否定した。

「けどな、あんたが助けてくれたって聞いてな、それで、ちゃんとお礼言わなあかんと思って、待ってたんやで!」

どうなるか分からない未来のこと、世間に対する病気への反応、どれもがどうでも良くなるくらい可笑しくて、蓮が喋れば喋るほど笑いを抑えられなかった。

「何なん!人の顔見て、そんな笑い転げるなんて、自分、失礼やで!」

蓮はふざけながらも少し怒って、グーで小突いてきた。

母は、俺たちのそんな様子を見て、フーッと溜め込んでいた息を吐き、「わたし先に車で帰るから、あなたたちは歩いて帰りなさい。」と言った。

「え?」

と2人同時に呟くと、「あんなに記者がいたら誰かが陽動しないと、ゆっくり帰れないでしょう。」と言って、母は先に裏口の方へ歩いて行った。

「蓮ちゃんは、家もバレてるんだから、今日はうちにいらっしゃいね。美味しいコロッケ用意するようにしておくわ。」

「えーほんまに!?わたし、おばちゃんのコロッケ大好き!」

蓮はわざとらしく足踏みして、母を見送った。

母の車が裏口の窓からスッと横切って正面口の方へ向かっていくのが見えた頃、おれと蓮はコソコソと裏口から出て、いつもと違う帰り道で帰ることにした。

また同じように並んで帰る日がくるとは、思ってもみなかったので、おれは浮いているようなフワッとした気持ちでいた。

初夏の夕暮れは病室の寒さも、じめッとした梅雨の蒸し暑さも感じさせないぐらい丁度良く、心地よい風が体を撫でてくれた。

「そういえばさ、蓮は本当に昨日のことだけ記憶がないの?買い物に行こうって約束したのは覚えてる?」

おれは気になっていた事をいの一番に尋ねた。

「うん、わたしも不思議やねんけどな、昨日のことだけ全く記憶にないねん。ただ、なんか夢の中で、あんたが叫んでる気がしてなぁ。でも、なんて言ってたんかは覚えてへんねん。」

「そっか。じゃあ、自分の身に起きた事ってどこまで聞いてるの?」

「んー、概要は聞いたよ。わたし、脱獄犯に人質にされたって聞いて、なんかのドッキリやと思ったもん。どうやって助かったんか聞いたら、なんか犯人が突然様変わりして降参したって言われてな。」

「これ、あんたがまたやったんちゃうかなぁって思ってん。そしたら、同じ病院にあんたも入院してるって聞いて、ビンゴやって思ったね。」

蓮は名探偵ばりの得意げな顔をして、鼻をさすった。

「そうだね。覚えてないなら話さなくてもいいかと思ったけど、そこまで話が読めてるのなら伝えとくよ。」

おれは事の顛末と、自分がした事、それによって警官も巻き添えに洗脳状態にしてしまったことも全て話をした。

「なるほどな。けど、なんで私は昨日の記憶だけないんやろ?」

「おれもそこがわからないんだよ。これまで洗脳状態にしてしまった人たちは、たぶんだけど、解けると俺の存在自体を無くしてしまうんだよ。なのに、蓮は昨日の記憶だけ飛んでるなんて、てっきりもう俺の事なんて忘れてるもんだと思ってたのに。」

「わたしが、あんたの事を忘れるわけなんてないやろ。」

蓮は、少し語気を強めて言った。
おれは、なぜ彼女が怒っているのかちっともわからず「どうして?」と尋ねた。

「もうええわ!」

蓮はプイッと顔を背けて、帰り道をスタスタと歩いていった。

「あとさ、おれ今回の件で、どうやったら洗脳状態にさせてしまうかわかったんだよ。」

蓮のあとを急いでついていきながら、自分の推測を広げた。

自分に対するネガティブな感情の振れ幅のことや、好きかもしれない、嫌いかもしれない、そんな不安定な状況が洗脳状態に落ち入りやすいこと。それは、自分自身も対象になるということ。

「あかりちゃんの時に自分が洗脳状態に陥ったのって、きっと高校生になって自分のことが好きになり始めていたんだよ。あかりちゃんも、たぶん俺のことを好きかもしれないぐらいの不安定な状態だったから、2人して罹ってしまったんだと思うんだよね。」

蓮は依然として、不貞腐れて「ふーん。」と気のない返事しかしなかった。

「でも、そうなると、ますます蓮が洗脳状態にならなかったのが不思議なんだよね。だって、あんな極限の状態にいたのにさ、気を失っただけって、どうしてなんだろう。」

おれは首を傾げながら頭を捻っていた。
蓮は呆れたような顔をして「それ、そんなに大事なん?」と訝しげに言った。

「おれの今後の生活に関わる重大な謎だよ。仕組みがわからないと、対処のしようがないじゃないか。」

おれは真剣に蓮に訴えた。

「そんなら、ヒントあげるわ。」

蓮はハァっとため息をついたあと、唐突に言った。

「ひとつ目、どうして隣のクラスやのに、わたしはあんたのことを知っていたんでしょう?」

「それ、ヒントじゃないじゃん。クイズじゃん。」

「屁理屈言うな!ちゃんと考えぇや!」

ムスッとしたままの蓮はおれをポカッとはたいた。

「じゃあ、ヒント2。感情が白黒はっきりしてる子はどうなるんでしょう?」

指をピースの形にして、また彼女は問いかける。

「それは、負の感情が一気に転換するから、おれの推理だと洗脳状態になってしまうね。」

おれは今までの帰納的結論によって、自信満々に答えた。

そんなおれを蓮は、ジトっとした目で見てから、的を得ない回答に心底呆れ返ったのか、首を横に振って遠くの方を見つめた。

「もうええわ、鈍チンめ。」

小言で呟いた蓮の言葉をおれは聞き取れず、「なんか言った?」と返すと、「なんでもないわ!阿呆!」と言い放って、川沿いの道を駆け出した。

「ねぇ!蓮、なんて言ったの!?」

おれはそう言いながら、小走りで蓮を追いかけた。

目の前に沈んでゆく夕陽は、以前と変わらず同じ形をしていた。

彼女と並んで帰ったあの日の夕陽のように。


<おわり>

STORY&MUSIC: nYushi
VISUAL: Da-man
ANIMATION: 湯葉
VOCAL: Flower, Miku Hatsune

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