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変わった家族??

私の生家は、多分変わっている。
大奥様の元に家政婦として働いていた母姉妹が養女になり、そこへ伯父と父が養子となり、8歳上の姉と私が両親の元へ生まれ、7人家族で過ごしていた。
元家政婦ということで母は祖母に遵従であった。姉が生まれるときも一悶着合ったらしい。
しかし、長子である姉はとても大人しく祖母のお気に入りであった。8年経ってから生まれた私は、両親の年齢も30歳を過ぎ自分達の力で育てる思いが強かったのと、私自身が落ち着きのない子だったことから祖母に疎まれていたらしい。
母は祖母の目もあり、私にはとても厳しかった。また姉と喧嘩をしても姉が悪くても『お姉ちゃんがそんなことするはずがない』とすべて私が叱られていた。
そんな祖母と母の目が怖くて落ち着きのない私は我慢を強いられる環境だった。
とはいえ、子供なので今よりは奔放に過ごしていた。
しかし、他人の目は異常に気にしていた。
今でも母に『田舎へ行く新幹線のコップ置き場に大人しく座っていた』『法事で他のいとこは走り回っているのに一番下のあんたがちゃんと正座をして座っていた』と言われるが、記憶がある頃は、叱られるのが怖いのと他の大人が我慢しているから、脚がモゾモゾしても我慢するしかない。と思って疑わなかった。
いとこが走り回っているのをうらやましいと言う目で見ていたが、同じようにする勇気はなかった。
何の疑いもなく、疎まれているはずの祖母のことを『おばあちゃま』と慕い。
大家族ではあるが、普通の家庭と思っていた。
しかし、同級生の親が羨ましかった。それは母が高齢出産で周りが若いお母さんだったからだと思っていた。
その中でも、私の救いは母の姉夫婦の存在だった。
父は2人を苦手としていたが、私は2人が大好きだった。理由は、普通に会話ができたから。
両親は…特に母は否定からしか会話がない。
なのに『あなたはすごい』『あなたは出来る』と言うので幼いながらに矛盾しか感じなかった。
そんな7人家族も祖母の死去、父親の事業倒産により核家族となった。
その後は、両親の…特に母の過保護?と常に否定される生活。そして私の知っている常識が常識ではないと言う現実と向き合うことになった。(…そのことに気づくのは高校生になってからだった。)

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