見出し画像

異国迷路のクロワーゼ(#私を構成する5つのマンガ)

 私を構成する5つのマンガ――5つも書くかは分からんが、仮に自分を構成する漫画が5作品あるとしたら、その筆頭には武田日向先生の『異国迷路のクロワーゼ』を推挙する。

 作画、ストーリー、デザイン、心理描写、台詞回し……何をとっても端々にまで作者の美意識が反映されている、是非一読頂きたい作品である。

あらすじ
 舞台は19世紀後半のパリ。時代の波に取り残されつつあった古い商店街で、鉄工芸店を営む店主・クロードのもとへ、祖父のオスカーが長旅から帰ってくるところから物語は始まる。
 遠路遥々、日本へと旅していたというオスカーの手土産は、異国情緒溢れる貴重な品々ばかり。その彼の土産物の中でも取り分け珍妙な一品だったのが、なんと日本の長崎からパリへ奉公にやってきたのだと言う少女、ユネ《湯音》だった。急激な消費社会へとシフトしつつあったパリを舞台に、日本の少女ユネと、若き店主クロード……文化も言葉も性別も違う2人の交流が描かれる。

背景描写
 まず目を引くのは、作者・武田氏の美麗な背景描写だ。あまり褒められた真似ではなかろうが、まずは添付した以下の2頁をご覧頂きたい。

画像1

画像2

出典:異国迷路のクロワーゼ Partie 7「公園」より

 休日。ユネのために計画していたピクニック当日のシーンだ。
 生憎の雨に落ち込むユネに、店主の祖父・オスカーが「俺が雨を止めてあげよう」と笑いかける。そうすると本当に雨は止んでしまう。長く降り続ける日本の雨しか知らないユネは、オスカーの言葉に驚きつつも、雨上がりの街道を笑顔で駆けてゆく。

 ハイコントラストに描かれた街並みは見事の一言。建物のベタと、空のごく僅かなトーン処理だけで、雨上がりの、ペトリコールさえ匂い立ちそうなパリの歩廊を描き切っている。

"日本"というアイデンティティ

"すごいでしょ あなたは 私達の地図の空白の場所からやってきたのよ!!"
――アリス・ブランシュ
出典:異国迷路のクロワーゼ Partie 10「家出」より

 16世紀の世界地図をユネに見せ、彼女の親友・アリスが息巻く。
 当時の世界地図には、まだ日本は描かれていなかった。ユネの暮らす商店街のオーナー・富豪ブランシュ家の令嬢である彼女は、若干13歳ながら、日本の花鳥画や山水画を蒐集する大の日本贔屓。冒険家になるのが夢の彼女にとって、まだ誰も知らぬ島国であった日本の文化は非常に魅力的なものだった。彼女は、着物姿でパリの歩廊を歩くユネとすぐに打ち解け、2人は次第に心を通わせていく。
 
 現代に生きる私達が失った日本のエッセンスは、作中の随所に見られる。
 ユネがパリにやってきて、しばらく経っての出来事だ。
 椅子の上に脚を折り畳んで座るユネの仕草を不思議に思ったクロードに対し、オスカーがこう答える。

"クロード、それはな 日本の家には椅子がないからだ。(ユネの仕草は)椅子なしで済ますための基本的な座り方なんだよ。
 椅子どころかテーブルもベッドもカーテンも何もない。それが驚くことに、なくても大丈夫なんだよ。必要な時には必要なものが広げられて出てくる。そう、無駄がなかった。西洋の家が、いかになくてもいい物が多いか思い知ったもんだ"
――オスカー・クローデル
出典:異国迷路のクロワーゼ Partie 9.1「日本家屋」より

 彼自身が『木と紙の迷宮』と評した、19世紀後半の長崎を訪れての発言だ。
 古き良き日本人が本来持っていたミニマリズムを賛美する、何気ない日常のひと場面だが、このオスカーの一言は、いつのまにか西洋化してしまった読み手の私達をドキリとさせる、アイロニカルな要素も含んでいる。

資本主義への警鐘
 先述の通り、本作では往年のパリの美しい街並みが描かれる一方、シナリオの根幹には当時のパリが抱えていた社会構造上の問題や、急速に発達する資本主義への警鐘といったテーマが据えられている。

 産業化到来に伴い、大量生産・大量消費社会へと急速にシフトしていく作中のパリで、ブランシュ家の経営する百貨店は資本主義経済の象徴として描かれる。
 一方、ユネやクロードの暮らす古い商店街には閑古鳥が鳴き、時代の波に飲まれ、取り壊しの危機に瀕している。

 そのテーマの語り部を担うのは、百貨店のオーナーであるブランシュ家の、アリスの兄・ウジェーヌと姉・カミーユだ。
 兄のウジェーヌは極めて優秀な実業家で、親の期待を一身に受け百貨店の一時代を築き上げるも、その内心では2人の妹たちの笑顔を切に願っている。
 姉のカミーユは、ユネの勤める看板店の店主・クロードに想いを寄せながらも、家の存続のため、母親の期待に応えるため、その想いをひた隠し、貴族と結婚する覚悟を定めている。

身分差の恋と心理描写

"持参金もたっぷりよ。欠けているのは由緒正しい貴族の血と名前だけね。私の商品価値はいかほど? お母様の満足する血筋の殿方につり合えるかしら"
――カミーユ・ブランシュ 
出典:異国迷路のクロワーゼ  Partie 10「家出」より

  身分の差からクロードへの想いをひた隠すカミーユにとって、彼の隣に突然現れ、彼の隣に居続けるユネの存在は、かつての自分を見ているような、複雑な感情を喚起させる。その感情が、カミーユがクロードへ放つ一言一言を、より奥深く印象的なものにしている。

"知らないのはあなたの方だわ。文化の違いなんかよりもずっと深刻な差を 私達はこの体に生まれ持ってるもの"
――カミーユ・ブランシュ 
出典:異国迷路のクロワーゼ  Partie 6「子供部屋」より

 アリスの2人の兄姉の覚悟は、ひとえに互いの兄妹を思いあっての事なのに、それを汲み取れない末妹のアリスは、社交界に勤しむ兄姉を疎ましく思い、本当の自由を求めるため、ユネを連れてブランシュ家を飛び出してしまう。

"大人ってなんで自分が見えてる物だけで終わらせようとするのかしら。
私はあなたの知っている小さな世界だけで満足したりしないの"
――アリス・ブランシュ 
出典:異国迷路のクロワーゼ  Partie 9.2「異国の夢」より

 家出を止めようとするメイドにそう言い放つアリス。純粋で、好奇心の強い彼女は、読み手の私達が当然のものとして受け止めている世界の常識に、平然と異を唱える。
 だが、子ども2人の家出が長く続く事もなく、機関車を降り平原を充てもなく歩いていたユネとアリスは豪雨に降られ、忍び込んだ薄暗い小屋の中で、凍えた身体を寄せ合う。
 心細さから、ついに泣き出してしまったアリスに、ユネは1通の手紙を差し出す。それはアリスが家出する直前、ウジェーヌがユネに託した、アリスに充てた手紙だった。
 手紙に書かれた自分への想いを、涙と共に噛みしめながら、アリスは、いつか兄と交わした、ある一遍の会話を思い出す。

 幼い日のアリスが、窓外に浮かぶ虹を見ていた時の事だ。
 大人たちが6つしかないという虹の色が、アリスには10にも20にも見えている。虹の色の数には様々が学説があるという話を聞き不思議そうにするアリスに、ウジェーヌが言う。

"君の見ているものが正しいんだよ。ただ僕らが見落とすように訓練しているに過ぎない。僕らは1つ大人の常識を覚えるたび、その規定から外れた世界を忘れていく。見えていたはずの美しい世界を失っていくんだよ。
 君はどうか忘れないで、僕が君の自由を守ってあげるから"
――ウジェーヌ・ブランシュ 
出典:異国迷路のクロワーゼ Partie 10「家出」より

 ……以上が、3巻に収録される予定だったエピソード群の概略だが、残念ながらそれが3巻として刊行される事はない。
 作者・武田日向先生は2017年に亡くなっており、本作は未完の作品のまま、電子書籍化もされずに絶版となっている。

 本稿を読み興味を持たれた方には、是非とも一読願いたい。
 この名作が時代の波に埋れていってしまうのは、あまりに惜しい事だと、いつも思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?