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ディスコミュニケーションが生み出すアウトプットの突然変異は我々を何処に連れて行くか

20代の終わり頃から、ディスコミュニケーションという言葉が長く心のどこかに引っかかっていた気がする。
「何か響きが格好良い」
程度のきっかけ(あるいはZAZEN BOYSがもたらした福音)から始まった引っ掛かりが、いつしか言語を理解する脳内のブローカ野にとどまるのみならず、むしろ脳内のネットワークの中枢に鎮座ましましているロストテクノロジーで作られたブラックボックスのの如き様相を示し始めた。

はじめは小さな引っ掛かりのようなものだったそのブラックボックスも、ソーシャル・ネットワーキングの発達によってより大きく、コミュニケーションを主とする仕事によってより鮮明に、自分の中で大きく育ち、今や自らの興味における高い割合を示している。

誰しもが他者により言語化されたアウトプットを各々の宗教的解釈しによって、または正義、あるいは独善のようなものによって独自の理解を行い、あるものは悪意を持ってリツイートし、あるものは曲解により良いねをし、発信者の意図に沿わない形で拡散されるようなことは、仕事終わりに食べたい物が思いつかないからと牛丼屋に入ってしまうような頻度で繰り返されている。

ずっと頭の中に引っかかっていたディスコミュニケーションが、携帯端末の液晶ディスプレイの向こう側にソーシャル・ネットワーキングという形で広がっている事に気づいたとき、それは個人がもつ地獄が複雑に混ざりあった、名状しがたき悪意の掃き溜めのように感じられた。
そして私は当然その光景を憎んだ。
ディスコミュニケーションによって人はより不幸になる。
ディスコミュニケーションは何も産むことはない負の概念としか感じられなかった。

ディスコミュニケーションを憎み始めた頃と時を同じくし、自分の食い扶持がコミュニケーションによって成り立っている事に気がついた。
私は自身をエンジニアと理解していたが、いつしかコードを書く量は減り、打ち合わせに忙殺され、見積もりを調整するために頭を悩ませることが主な役割になってしまった。
「プログラム言語でしか会話できないエンジニア」と「プログラムの価値をコードの量でしか判断できないSIer」の言葉を翻訳する行為に、私の給料(もしくは人月単価)という価値が付与されている事に気付いたとき、更にディスコミュニケーションを憎んだ。
自分の価値である翻訳作業は、ディスコミュニケーションを最大限排除することにあると理解していたからだ。

更に月日はたち、自分の名刺には「Webディレクター」という実態のよく分からない肩書が印刷されるようになっていた。
聞くに、とても自殺率の高い仕事らしい。
精神的な負荷に反比例し、クライアントからは価値を見出され辛い、失敗が増える程存在感を増す仕事だからだろう。
大手SIerの下、数カ月〜数年単位のスケジュールで、如何に不具合が出ないか(もしくちょうど理論値に近い不具合が出せるか)に注力していた元エンジニアには、Web業界の公転速度はあまりに早かった。

肩書が変わってもら私の役割は相変わらず翻訳家だった。エンジニア時代は日仏の翻訳をしていたものが、ディレクターになって英独の翻訳を行うようになっただけで、求められる役割は変わっていなかった。
しかし、業界が変わったことによる公転速度の加速は、翻訳の精度を日に日に落としていった。
ひどいときには、未翻訳の文章に、付箋を貼った辞書を添えるだけのときもあった。
当然ディスコミュニケーションは加速し、もたらされるアウトプットの「ゆらぎ」はスイングバイを繰り返し、振幅を増して行く。
期待を大きく下回るもの、明後日の方向に大きく弧を描くもの、息を引き取り土葬されてしまったもの。

そんな中に、時折期待を大きく上回るもの、期待通りでは無いがクライアントから評価されるものが生まれ始める。
それは真空のゆらぎがビッグ・バンを産んだような、鳥が遺伝子の複写エラーにより翼を手に入れたような、天地創造、あるいは進化のようなものだった。

もし我々が完璧なコミュニケーションが跋扈する世界に生を受け、ディスコミュニケーションがもたらす「ゆらぎ」の存在しない社会を築いていたとしたら、まだマンモスを求めて荒野を駆け回る狩猟民族だったかもしれないし、神がサイコロを振る素粒子物理学は異端であったかもしれない。
少なくとも、AIがトライアンドエラーを繰り返して最適解を導き出すプロセスを許容するような世界にはなっていなかったのではないか。
ディスコミュニケーションを許容できない世界は爆発的な進化を起こすことのない、管理の行き届いたディストピアたり得るのかもしれない。

私の脳内に鎮座するディスコミュニケーションというブラックボックスは、おそらく人生の選択にも「ゆらぎ」を与え、私をここまで運んできたんだろう。
ゆらぎによって得られる結果が好ましいかはさておき、ディスコミュニケーションは人々を遠くに運んで行くに違いない。

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