一条戻橋の軍人 終(ナイアル×プリマデウス)
ナイアル×プリマデウス
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■混沌の化身
戻橋は、異様な空気に包まれていた。
いや、異次元というべきか。
橋に流れ出た血液が、橋下の川に流れ落ちることなく、血煙となって舞い上がり。空から照らされる月明かりが、夜露に濡れた地面に反射して、そこに赤と青とに明滅する歩行者信号の光が差し込む様は、幻想的ですらあった。
しかし、そこで対峙するサラリーマンと、刀を携えた軍人の間には、一瞬の息抜く間すら与えぬ、緊張が張り巡らされていた。
軍人が一歩、また一歩と、その間を縮めていく。
足を進める度、橋に流された血が蒸発して、煙のように舞い上がるが、その煙は軍人の背後にある、いつの間にかポッカリと開いていた、暗黒の虚空に吸い込まれていく。
サラリーマンは動けない。
その光景はいわば、複雑な巣に絡まった愚かな虫を、巣の主である蜘蛛が、糸を手繰り寄せ、捕食しようとするかのようだ。
サラリーマンが持っていた抗うべき手段のナイフは、既に軍人の刀によって弾き飛ばされ、どこかへ消えた。
だというのに、前に進むことはおろか、逃げることもしない。
いや、出来ないでいる。
現実的に、サラリーマンの身体は、何者にも拘束されていないが。
その虚構の身体、精神や魂というべきか。
それらは、狙いを定められた軍人の眼光によって、影縫いの如く、その場につなぎ止められ、縛られてしまっている。
「お、オマエハ…。」
「オマエハ… ダレダ?」
サラリーマンが喋る。しかし、その声は、酷くカタコトで。まるで、何者かがサラリーマンを操り人形として、喋らせているかのようだった。
いや、実際そうなのだろう。
サラリーマンの目に、もはや生気は宿っていない。身体も縛られたまま、何者かに不自然に立たせられているような、奇妙な風体だ。
「貴様を、地獄(こんとん)へ誘う時計男だ。」
軍人が端的に応える。
「バカな… ワタシこそが混沌だ。星系スベテの時間に影響を及ボス、ワタシこそが混沌の化身だ。」
サラリーマンの口から、不安定な声が漏れる。
軍人が、ゆるやかに刀を振りかぶる。
「言い残すことは、もう無いな虚構(ニセモノ)。」
そして。
一瞬のうちに、サラリーマンの首筋に、軍人の刀が触れていた。
「オマエ…!まさか、オマエも時間ノ…!!」
言い終わらないうちに。
「ア゛ッあ゛あ゛あ゛ッッッッッッ!!!!」
刀は鋭く、素早く、薙ぎ払われることは無かった。
まるで、チェーンソーで大木を切るかの如く。
しかし、チェーンソーのように、その刃はうるさく回転して、火花を散らさない。
とても冷たく、とても静かに、ズブリズブリとサラリーマンの首に溶け込み。
吹き出る血が、まるで火花のようであった。
刀はとてもなめらかで、とても静かに… 板前が赤身に包丁を通すよりもゆるやかに。
豆腐を切るよりも静かに。
まるで、プリンを切っているかのように、なめらかに、刀は頭と胴体とを繋ぐ首を切り離す。
いや、現実の肉体は、切り離されてはいない。
だがしかし、そのように確信したのは。
男の魂、あるいは精神や意志というべきか。
虚構の首は、確実に切り落とされていた。
軍人が地に落ちたらしい、虚構の首を拾い上げるとともに、首がつながったサラリーマンの現実の肉体は、操り糸が切られたかのように、その場にグニャリと脱力する。
サラリーマンのクオリア、サラリーマンの奥深く、背後に漂っていた名状しがたい気配は、もう感じられない。
橋の上にはもう、俺と軍人のクオリアしか感じられない。
「協力、感謝する。」
軍人はそう言って刀を納め、背後の虚空に踵を返す。
「ま、待て…!」
軍人が虚空に消える気配を感じた俺は、咄嗟に呼び止める。
「アンタが何者かは、どうでもいい。だが、一つだけ教えてくれ。」
「…何だ。」
軍人が振り返らないまま、俺に応える。
その言葉に、何故俺はそう言ったのかは、分からない。
何故、そう聞いたのかも分からないが、そう聞かねばならないと、俺は知っていたのかもしれない。
「…アンタは… “何者なんだ?”」
どうでもいいと。自分で言ったばかりの言葉を口に出していた。
だがしかし、それは最初に口にした、軍人が何者であるかということとは、やはり別の意味で聞いたのだろう。
俺が知りたかったのは、軍人がどこの誰かということではない。
今、ここに現れることになった、軍人の存在意義や意味。
それを知って… やはり、納得したかったのだ。
「アンタは、何者なんだ…。」
再び言葉にする。
「貴様が化身となったなら。」
軍人は応えた。
しかし、質問の意味に対しての返答ではなかった。
「果たして何と呼ばれるのであろうな。」
そう応えて、血煙とともに。
静かに虚空へと消えていった。
「俺が… 何と呼ばれるのか… か。」
消えゆく軍人の背中を見やり、その呟きを言葉にした時、俺もグニャリとその場に脱力した。
橋の異様な空気は元に戻り、緊張の糸が切れたということもあるが。
(…これは… 貧血だな。)
クラクラしながら、ゆっくりと閉じられてゆく視界の向こう側に、南郷さんと風車刑事の姿を確認したところで、俺は安心して、しばし意識を手放した。
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「犯人、逮捕されたみたいだね。」
数日後、俺はどこにあるかも分からない、路地裏にひっそりと現れるバーで、事の顛末を、依頼主に報告していた。
「犯人は、まるで魂が抜けたように、余罪も全てベラベラと喋り出したとか。まさか、京都連続通り魔事件の犯人とはね。」
浅黒い肌で… 愉悦な笑みを称える、混沌の依頼主にだ。
「…どうせ、初めから全部知ってたんじゃねえのか。」
そんな気がする。いつものことだ。
「さあてね。少なくとも、君の活躍のおかげで、事件は無事解決したというわけだ。現実的にも、虚構的にも。」
「俺が介入しなくても… 風車刑事が逮捕できてたと思うけど?」
「だろうね。しかし、罪には問えなかったかもしれないし、余罪も分からないままだったかもしれない。」
「あいつは、精神異常の狂信者だった。そんなところか?」
刑法第38条だったか、39条だったか…。精神異常は罪に問えないとか、なんとか。
クセクサノス…とかいう存在の狂気から、あの軍人が切り離したことで、サラリーマンは正気を取り戻したといったところだろうか?
「大体、そんな感じだろう。憑き物が落ちたみたいに… という言葉が、とてもしっくりくるんじゃないのかな。」
「憑き物が落ちて… 善人に戻って… 今まで自分がしてきた、悪事に耐えきれなくなった?」
「善とか悪とかいうのは意味が無いものだっていつも言ってるだろ?」
「あぁ… そうだったな。いや、俺が言いたいのは、原因は結局、クセクサノスに魅入られていたから、だったのかってことだ。」
「それも、今となっては分からないよ。最初の通り魔事件から、魅入られていたのかもしれないし、衝動的な犯行だったのかもしれないし、計画的な犯行だったのかもしれないし、あるいはただの事故だったのかもしれない。」
「卵が先か、鶏が先か…。魅入られたから犯行に及んだのか、犯行に及んだから魅入られたのか。連続通り魔事件に発展した原因は、わからない…か。」
「本人も分からなくなっているかもしれないね。それこそ、神のみぞ知る… クセクサノスなら知っているかもしれない。」
「意外だな。アンタなら、卵が先って言いそうな気がしたが。」
「なぜだい?」
「卵こそ、“変化そのもの”だからだよ。」
「それは、混沌の邪神の言い分だろう?混沌で秩序、混沌を支配するカオス・ルーラーの言い分としては、やはり“卵が先か、鶏が先か”という“状態”こそが、答えであると言えるね。でも、これすらもどうでも良いんだよ。結果的に事件は解決できたんだから。」
「よく言うぜ、人間の世界の事件になんか、興味は無いだろうに。」
「違う違う。“過去にやり残したことを清算しておきたい”って言っただろう?」
「やり残したこと?」
「クセクサノスさ。それと… チクタクマンのこともそうだね。」
「チクタクマン… あぁ、あの軍人のことか。」
「そうそう。あの軍人を化身に引き込んだのは大正時代で、それからもうしばらく経つんだけど、その後の役割を与えれていなかったんだ。」
「あいつ、地獄からやって来たとか言ってたぞ。」
「それは悪いことをしたね。混沌の虚構の世界に引き込んで、何十年も教授無しに放置してたら、彼からすれば、そこは地獄かもしれない。」
「さしずめアンタは、地獄の鬼ってとこだな。それで、クセクサノスは?」
「あいつはナイアーラトテップの偽物だよ。それも星系に影響するほどの時間を乱す厄介なヤツさ。しかも今回、ヨグ・ソトースの化身であるアフォーゴモンが、京都に魑魅魍魎を呼び出すために使っていた橋に、ちょっかいを出す形になってるだろ?だから、ヨグの疑いの眼差しがこっちに向くわけさ。良い濡れ衣だよ。」
「クセクサノスのせいで、ナイアーラトテップはヨグ・ソトースに疑われ、あの軍人は通り魔事件の犯人として疑われ、互いに濡れ衣を被ったってことか。」
「そんなの面白くないだろ?だから、混沌には混沌を、時には時を。ナイアーラトテップの時間の化身であるチクタクマンに、時間を操るクセクサノスというナイアーラトテップの偽物の退治という役割を与えたわけさ。」
「で、俺はそのお手伝いと。」
「そういうこと。」
「となると、南郷さんもアンタの差し金なのか?」
「南郷…?あぁ、呪術警察のナンゴ・ソンシムか。いや、あれは私じゃないよ。虚構に干渉できる、現実世界の人間がたんに動いたか、あるいは…。」
「あるいは?」
「あるいは、ヨグ・ソトース側の人間かもしれないね。」
「やれやれ…。となると、クセクサノスは、ヨグ・ストースとナイアーラトテップの両方を敵に回したわけだ。勝てると… 逃れられると、騙せると思ったのかねえ…。」
「さあ…、あるいは知らなかったか。ほら、あるじゃない。大海を知る前に、己の力を過信して、下手なことをやっちゃうみたいな。」
「どちらにせよ、ご愁傷様なこった。」
本当にご愁傷様なのは、そのクセクサノスに魅入られて、手を貸してしまったサラリーマンなのかもしれないが。
連続通り魔なんて事件を起こした犯人だとしても、強大な邪神二柱を敵に回してしまったという状態は、流石に同情する。
「彼にもう、退路は無い。現実的にも、虚構的にも。残念なことだ、混沌に呑まれさえしなければ、優秀なカオス・ルーラーとなれたかもしれないのに。」
微塵も残念そうな素振りをみせず、混沌の主はそう嘆息する。
虚構の世界にも退路が無いというのは、絶望的な事だ。
人間は、現実で辛く、どうしようもなく追い詰められ絶望した時、そこに物語だとか、ゲームだとか、空想の存在だとか… あるいは、最悪“死”という、心の拠り所や逃げ道が存在するから、平穏に生きていけるのかもしれないが。
あのサラリーマンは、虚構の身体を、地獄(こんとん)に引きずり込まれた。
軍人にとっての地獄。彼にとっての地獄。そして俺にとっての地獄という場所は、それぞれ違うし、それを地獄と呼ぶかどうかも捉え方次第だが、少なくともそこは、絶望の場所に違いないのだ。
逃避する虚構に安寧は無く。現実に戻っても安寧は無い。
死は救済にならなければ。無に帰ることもできない。
「…そういえば、あの軍人。俺が化身になったら、何て呼ばれるのかとか言ってたな。」
気持ちが暗く沈みかけたため、話題を変える。
「へぇ…。それで、あなたは何て呼ばれたいんです?」
チクタクマン、膨れ女、バロン・サムディ、赤の女王、悪心影… そんな名前達が、頭をよぎる。
しかし、名前が十個ほどよぎった辺りで、それを止めた。
「何とも呼ばれたくないね。」
そうだ。化身の名前なんて、俺には必要ない。
「そう。“今はまだ”必要ないみたいだね。」
目を弧のようにゆがめて、さも愉しそうに、こちらを見やる。
「これから先も、必要ねえよ。」
俺はまだ。いや、これからもずっと、混沌に呑み込まれる気は、さらさら無い。
だから、俺に名前は必要ない。
“一条戻橋の軍人”のような、名前は必要ない。
「そう。でも、必要になったら教えて欲しいね。そして、慎重に決めて欲しい。化身の名前を決めるという事は、ある特定の場所に、因果に楔(くさび)を打つということだ。君の存在としての場所を決めるという事だ。」
「…必要ないって言ってるだろ。じゃあな、二度と再び千なる異形に出会うことがないよう、祈ってるよ。」
そう口にして、俺はその場から立ち去る。
どこにあるかも分からない、路地裏にひっそりと現れるバーから立ち去る。
そして、立ち去る背中に、声がかかる。
「君に永遠の混沌を。」
冗談じゃない。
地獄に墜ちるには、まだ早い。
楽しい創作、豊かな想像力を広げられる記事が書けるよう頑張ります!